【写真日記100】未来への選択肢


写真日記をはじめて100日目を迎えました。

やってみて気づいたことは、この写真日記に
まさに今の自分が映し出されてるなあと思うのです。

それは自分の心情というわけではないでなく、そのなんというか
表現の在り方というか、欲求をカタチにする能力というか、
作品を生み出すフェーズ、もしくは過程を的確に表現しているなあということです。

アートは解釈を人に委ねるというところがあります。

いわゆる写真家の作品はコンセプトやステートメントは文字化しても、
基本的には写真だけで表現します。

無論それは解釈を制限させないためですが、もっと言えば
作家の意図を超えたところで作品を生かすためでもあります。

大人はいつまでも子供の親だけど、保護者であってはいけないように、
作家も一度世に送り出した作品にとやかく言っていいわけではありません。

だからこそ、世に出すまでは誰よりも作品と向き合う必要に迫られるわけです。
(知り合いのアーティストからの受け売りですが)

以上のことから写真に付随するメッセージが入ると解釈する余地を
狭めてしまいますから、よくないところがあることも理解しています。

でも今の自分にとって、今の自分の写真はそれだけで完結できるものではなく、
何かによって補完すべき対象なのです。

赤ん坊が歩行器を使って前にすすめるのと同じように、
今の僕の写真には文字が必要で、今の文字にもまた写真を必要としています。

それはやっぱり遠くに行ける歓びを感じる前に、赤ん坊から歩行器を
取り上げないのと同じように、まだ写真から文字を取り上げる必要もないですし、
また文字も写真を必要としている期間はお互いに寄り添っていてもいい。

甘えではない必要な工程なんだという、
どうやらそれが今の僕の成長期におけるフェーズようです。

だから解釈の方向性を決めるから良い悪いではなく、
それも含めその作品を介錯(こんな風には使わんか)していただけるような、
そんなよい表現としていくことができたら良いなと思うのです。

そいういう意味では、これらはまだ作品ではないということになりますね。

改めて、自分から出た表現されたものたちと向き合う時間を通して
僕抜きにして世に送り出せる作品として独り立ちさせられるように
関わらなければなりません。

そのときにはきっと、文字もまた今とは異なる作品を担う一部分となり、
文字の解釈をすら読み手に委ねることになるのかもしれません。

一つの成長イメージは見えましたが、とは言え子育てと同じように未来への
選択肢を狭めること無く共に歩んでいこうと思うのです。


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