デッサンでの学び「僕は何も見ちゃいなかった。」


この週末はじめてデッサンを体験した。鉛筆ではなく木炭で。とても有意義な時間だった。今回は石膏像のマルスを描いたわけだけど、「あ、これ無理だ」久しぶりに諦めようかなと頭をよぎった。

10時間ほどかけて、(先生の手をだいぶ加えて)何とか形にはなったけど、僕はよっぽどものを見れていないようだった。驚いた。「誰だこれ?」ってなった。そしてどこをどう手を加えればいいのか、混乱しまくり。

これまでの自分を振り返った。見ているはずのものが見れていないのだから、形のない見えないものをいかに表現するかなんて考えていた自分がちゃんちゃらおかしい。おこがましくて鼻先で笑ってしまう。

飛び上がるほどに似てなかったわけだけど、学びは非常に大きかった。結論的にはやってみてすごくよかった。伸びしろは人一倍あるわけだし、何をやっても学びとなる。学習効率がめちゃ大きいんだもの。


光と影の関係とか

デッサンは、見えているものを見えているままに書くことだ。そのためには視ることだ、視たとおりに再現するのだから見えていなきゃ話にならない。

まずは観察である。つまり、デッサンは描くことではなく観ることだといえる。対象物をいかに観察するか。じっくりじっくり観察するのだ。舐めるように観察する。虫が這うように観察しなければならない。隅々まで。

そしてようやく描く。道具はたくさん揃える必要はない。ひとつの木炭でなんだってできるのだ。弘法筆を選ばずである。先で描く、腹で描く、点で描く、線で描く。指で押し込む、ガーゼでこする、パンで撫でる。。。

方法に制限はない、道具は一つでも使い方は無限にある。そりゃそうだ、例えば影は影という一つ単語だけど、影は1つではない。影の濃淡は無限にあるのだ。お化け屋敷の暗さ、電気を消した部屋の暗さ、公園の木の下の暗さどれも違う。理屈で考えると、無限に方法を考えなければ無限のものを表現できるわけがないのだ。


同じ木炭でも表現方法は無限

芸術は芸と術から成り立つ。アートそして、テクニックである。芸術を追求する上ではこの両輪が噛み合ってなければダメ。芸術の術(テクニック)の部分である。デッサンは創造的なものではないが、創造性をどれだけ表現できるかはこのデッサンにかかっていると思う。守破離という考え方があるが、まずは型をみにつける守に当たるものだと思う。

見えないものを視るためには、まず見えているものを視れるようにならねばならないなあと、そんなふうに思ったデッサン初体験だった。


10時間の成果、リベンジ案件に認定です


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