ホドラー展で気づいた自分なりの死生観


そういえば、昨年ホドラー展に行ってきました。

恥ずかしながら、ホドラーについてはあまり知らず、絵に関しても見たことあるかな、ないかなくらいの感じだったのですが、今回の個展に行ってみて、一気に彼のファンになってしまいました。ファンというか、むしろコーチというかガイドというか、ともかく漠然とした抽象的な考えを明確に具体化させてくれたそんな感じです。

というのも、今回のホドラーの個展ですが、何が最も印象的に残っているかというと、作品自体も大変印象的でしたが、その作品を通して自分自身の死生観について考え直すきっかけをもらったことだと言えます。

常々、アートは問いであるという意識で見ていますので、作品を通してその意図や狙いなんかを自分なりに考えたりするわけですが、今回は数日経ってやっと整理できてきたという感じです。その場だけでなく、余韻を残すという意味で、素晴らしいイベントだったと今更ながらに思う次第です。

彼の作品の解説や、イベントの内容はとてもうまくまとめていらっしゃる方がいると思うので、ここでは一個人として、どんな影響を受け、どんな解釈をしたかということをまとめておこうと思います。

▪️エネルギーの流れをリズムという表現で描いた画家

さて、ホドラーは人間や自然が放つ生命感、躍動感を絵画で表現した画家だということを、今回の個展で知りました。『人々の身体の動きや自然のさまざまな事物が織りなす、生きた「リズム」』を表現しているという説明がありましたが、このリズムという表現、解説にはたくさん使われるのですが、リズムとは具体的に何なのかは触れていませんでしたので、一体何を指すのかと、作品を見ながら考えていました。

今のところ、私は「リズム」とは「エネルギーの流れ」ではないのか、というところで落ち着いています。流れというのは動的なものですから、静止画で表現するのは難しいので、エネルギーの流れを絵で表現するにあたって、彼はリズムという境地にたどり着いたのかなと。

エネルギーと一言で言っても、いわゆる生命ネルギーだけではなく、太陽をはじめ、風や熱などの自然エネルギー、物体が動くことで生じる運動エネルギー、重力世界の位置エネルギーなどなど。。。今食べてるナッツにも熱量という名のエネルギーがありますし、ぼくたち人間はたくさんの目に見えないエネルギーに囲まれて生きています。

彼の作品は初期の頃と晩年の頃を比較すると、タッチの差は歴然で、「リズム」の発見をきっかけに画風も繊細で細やかなものから、大胆で勢いのあるダイナミックなものに変わっていきます。エネルギーが見えるというのはとても強力なことで、そうしたエネルギーの力強さを表現するにあたっては初期に見られた繊細な絵よりも、むしろ大胆なタッチで描くほうが表現できた、しっくりきたのかもしれないなという解釈で見ると、初期の頃の作品と晩年の作品のタッチの違いは当然のことのように思えてきます。

▪️死生観を変えられた作品「オイリュトミー」

そういう意味で、「リズム」を描く節目となったと言われる作品「オイリュトミー(良きリズム)」は、ぼくが最も好きな作品になりました。もちろん作品を見ていた当時のぼくは、そんな前情報は当然知らなかったので、完全に感覚的なものでしたが。

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季節は秋、5名の老人の歩く姿を通して「死」への接近を表現している作品ですが、この作品を初めて目にしたときから、ぼくは「死」という単語が通常連想させるような絶望や恐れなどの後ろ向きな感覚ではなく、むしろ神々しさや希望みたいな前向きな印象をこそ感じました。

ぼく自身持っていた「死」のイメージは、死は失うものが多く受け入れ難いもので、どこからともなくやってくる不吉な存在、「死」は待つべきものという受動的な印象でした。

ただ一方で、ぼくは天邪鬼な性格なので、頭の片隅では意識的に、そうではなく、死を迎えるということは実は素晴らしいことなのではないかと、漠然と自分の意識に挑戦するような姿勢でいましたが、この作品に出会ったことで心の靄が晴れていきました。やはりその通りだったからです。

「死」は待つものではなく自分の足で歩いて、自分自身で迎えに行くものかもしれない、という能動的な意識、姿勢で向き合うことこそ本来あるべき姿なのではないかと感じました。確かに俯き加減に歩いてはいるのですが、よく見てみると、諦めというよりは悟りを開いたような、よい意味で受け入れたような清々しさすら感じられました。漠然としていた「死」の捉え方が自分の中で、明確に前向きなイメージに変わったことはこういう理由があってです。

ホドラーは『人間には「死」が迫るからこそ、われわれの「生」は躍動し、それぞれに異なる「リズム」をもつのだ』というメッセージを残しており、彼の死生観を垣間見ることができます。まさにその通りで、「オイリュトミー」以降、「生」を感じられるダイナミックな作品が多数作られていくことになりました。

▪️人生における魂のリズム

話が少し逸れましたが、リズムをエネルギーとして捉えるのではなく、文字通り「リズム」として捉えてみても面白いなあと思います。朝、昼、夜という1日のサイクルもリズム(ホドラーは同じ光景を時間帯をかえて書いています)でしょうし、食物連鎖なんかもそうかもしれません(ホドラーは人間以外の動物書いているのかな?見てみたい迫力ありそう。)し、日本では四季があります、これはとても美しいリズムといえると思います。ホドラーが日本を描いていたらどんな作品ができていたかとてもワクワクします。

また、これも今回の死生観が影響してきてのことですが、私たちの人生もリズムだといえるんじゃないかと思います。この世に生を受け、現世を旅し、天に還り、そしてまた次の生を受けるという魂のリズム、こう考えると、ぼくたちは日々、リズムを奏でることで生きている、生きていけるということかもしれません。今日1日どんなリズムを奏でたでしょうか。。。

彼の作品を見るにあたって「身体化された感情」というキーワードが出てきます。これは人間の中に感情があるのではなく、感情が人間をかたどっているというものと解釈すると、人が人たらしめるのはやはり感情、魂であり肉体が滅んでも生き続けることができるという仏教の教えもなんとなくしっくりきました。先ほど触れた人生における魂のリズムは仏教でいう輪廻転生のサイクルみたいなものでしょうか。

▪️アートは問い

ぼくにとってのホドラー展は、単なる芸術鑑賞という枠を超え本来見えないものを、彼というフィルターを通して、その存在を感じることができた貴重なイベントとなりました。冒頭にも触れましたが、その場だけでなく、余韻を残すという意味で、ご覧になられた方、これからご覧になる方は時をおいて思い返してもらえると新たな気づき、発見があるんじゃないかなと思います。
まだご覧になられていない方は1月中旬ごろまでやっているようですので、ぜひご覧になっていただけばと思います。

その作品から何を読み取るか、何をメッセージとして受け取るか、個人によって様々だと思いますが、もうひとつ自分としてはそのアーティスト以外にも、自分自身が日々考えているようなことが、その作品を通して自分に語りかけてくるようなことがあるなあと今回感じました。

人生において、何が正しくて、何が間違っているということは言えないと思います。であれば、その判断基準はやはり自分、そういう意味で判断基準のセンスや精度を養う意味で異なる価値観や、触れたことのない世界にどんどん踏み込んでいくべきだなと。これからも自分の中にフラットな問いを持って挑みたいなあと思った次第です。ひよっこなりに。


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