今道子作品の解釈を行う行為、〜有機と無機、境界線の破壊〜


今道子さんの作品には惹き込まれるものがある。今さんは魚や野菜を特に好んで作品にされている。彼女の作品を参考にして写真を撮るということを試みることにした。僕の性質上、まず作品を撮る前には解釈から入ってみる。

今道子作品への解釈〜有機と無機境界を破壊する〜

彼女の作品は何を意味するものなのか?どのようなことを伝えるために作り続けるのか?結果、我々は何を受取り、何に気づき、そして何を自分の糧とするのか?このあたりの問を自身に落とし込むために、僕はまず彼女の作品を次のように解釈した。


今道子 https://www.shashasha.co/jp/artist/michiko-konより

生き物が命を失い単なる肉体となったものを異なる文脈に置き換える加工作業であると思う、その結果として有機体であった魚が無機的な帽子や衣類へと姿を変えている。一方で帽子の側から見れば、本来持ち得なかった有機的な奥行きを獲得するに至る。

彼女の作品は、パンフォーカス的に画全体的に焦点をあわせ、モノクロでコントラスト強めに作成することによりパリッとモノとしての側面を強調するように作成されている。これらの過程を経て、有機と無機の境界線を考えなおすアプローチなのではないかというものだ。


今道子 http://plginrt-project.com/adb/?p=7873より

ただそのように小難しい解釈をする一方でやはり単純だけども、「魚が勝っている」と感じるのだ。結果装飾物なのだが、やっぱり魚なのだ。装飾物が魚によって生み出されたというより魚がそのものを形成していると映る。つまり装飾物という概念よりも、生き物としての存在感のほうがやはり強い、それはきっと魚の目によるものだと思う。


今道子 http://db.photo-town.jp/c003/今%E3%80%80道子/より

ただ魚の印象が強いということを言ったが、あくまでも作品全体を通しては、再構築されたモノである。彼女の作品は絶妙に有機と無機のバランスをとることで、見るものを不安定で無重力的な空間に誘う、そんな気持ち悪さが残るのだ。

視ることと撮ることはまったく別世界

ここまできて、ようやく私は彼女の作品を自分なりに咀嚼し、魚を使った作品をつくりだす行為に移った。正直やってみるまではわからなかったが、写真で見ていたときとは全く異なる世界が現れた。というか身をもって感じた。

僕は秋刀魚を題材として使うこととした。作品をつくるために四尾の秋刀魚を家に連れ帰り封を開け、魚をつかみ取りだす。当たり前だが、柔らかい。安定しない体、生臭い臭い。

そして何より、本来食材として食べられることを前提に並べられていたものたちである。食物連鎖的に考えれば人間より下の階層にいる彼らは食われるためにその身を差し出している。にも関わらずに半ば弄ばれるように、撮影の為に体を好きなように使われるわけだ。


秋刀魚を台所のまな板でなく、チャップリンの絵の上に配置して撮影

行為としては秋刀魚を絵の上に置いただけなのであるが、感じたことのないような気持ち悪さを覚える。自分がもし同じような立場だったとしたら、とてつもない辱めを受けているような気持ちになるだろうと思う。

命のある肉体、命のない肉体

死してなお苦痛を与えられるような感覚、そしてそれを行っているのは他ならぬ自分自身である。「命を大事にしろ」「食べ物で遊んではいけない」「粗末にするな」小さい頃から繰り返し言われてきた言葉が頭に響く。

魚を掴む手は生臭く、配置する先にも当然同じく臭いがつき、血の跡が滲む。そして撮影を継続する時間がそのまま鮮度を落としていく。ポジションを変える、異なるセットで撮影する、そのたびに僕の体内に石のような物が積まれていくような感覚だ。


鳥かごにいる秋刀魚

生き物は死んだらモノになるなんてそんなことはない。死んでも生き物だった。わかったつもりになっていたがとんでもなかった。

彼女の作品はそんな生き物と対峙することを経て構築されている。作品を見る機会が多くなると、理論や意図の解釈が先行して本来注目すべき基本的な観点が抜け落ちてしまう、まさにこの典型的な落とし穴にはまっていたことに気付かされた。


切り取られた花と水揚げされた魚は仲間と言えるだろうか

ファインダーを覗くたび彼の目とレンズ越しに目が合う。生きていた時に我々と同様、たくさんのものを見ていたその目が語る。「お前は花の中に俺を突っ込んで何をしているんだ?」と。こんなにも早く撮影を早く終わらせたいと思ったことはなかった。

調理するときには感じなかった生き物特有の柔らかさ、血の滲み、臭い、どれも気持ち悪かった。それらに対する背徳感で一杯になる。

命の意味を問われる行為

撮影終了後、食べる行為はいつもの楽しみではなく、犯した罪を隠蔽するような感覚に近かった。アルコールで喉の奥に流し込んだ。

ただ、「もうやりたくないか?」と聞かれると、答えは、わからない。やらないとは言わない。ものすごく意味があることのようにも思う。それが何かはまだ掴みきれていない。ただ想像以上の疲弊感、目の奥に違和感がある。私のアプローチが間違っていたのだろうか。

生き物とは何なのか?命、精神と肉体の関係性とは一体どのようなものであろうか?決して生まれ変わらせるわけでもなく、再構築するということにどのような意味があるのだろうか?彼女は、作品を通して何を見ていたのだろうか?

撮影をすることによって、解釈していた世界が崩れていった。そんな簡単なものではない。今この文字をタイプする手がまだ生臭い。


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