写真家は犯罪者か


先日、写真家の渡邉博史さんの写真展開催に際して、土田ヒロミさんとのトークショーが開催されるということで中野のギャラリー冬青へと足を運んだ。

渡邉博史さんはこれまでにたくさんの作品を世に出してきているが、日本国内よりも海外での評価が高い作家である。

今回のトークショーは基本的には土田さんが渡邉さんに食い込んでいく(裸にしていく?)ような形式で、渡邉博史さんのこれまでの作品に触れながら、今回の展示についても話を深めていくというものだった。

土田さんが渡邉さんに切り込んでいく観点が僕の好きなタイプだったので、非常に楽しませてもらった。渡邉さんの作品への視点は当然だが、最も場が熱を帯びたのは、写真家の倫理、境目というものであった。

例えば、ある写真家はシリア等に代表される難民の姿を写し、それをニューヨークなどで個展を開催し、そして作品を販売するという行為。また近年では3.11の震災についてだ。多くの人が亡くなった現実がある中で、その時、その場所にいればもっとリアルな写真が撮れた(例えば人が流されるなど)という写真への想い(執念)をもつ写真家の姿勢はどのように評価されるべきなのか。

人として、踏み外してはいけない領域というものは存在するだろう。ただ、一方で現時点では、避難されたとしても歴史的に考えれば今この瞬間の現実を写しておかなければならないということもわかる。

ただ、最悪の場合、肖像権やプライバシーの侵害に、侵入罪、窃盗罪、公務執行の妨害になることもある。これだけ見ればカメラは凶器ともなり得るし、十分に犯罪者の要素は備わっていると言える。

写真家を包括する芸術家は、クリエイティブな領域で一次産業にも二次産業にも含まれないという意味では、三次産業となりそうだけれど、現実を加工するという意味では二次産業に属していると言ってもいいのではないかと思う。

つまり自身の想像が念写されるわけではなく、あくまでも現実の世界を切り取るのであるから、被写体への最低限の倫理は問われてしかるべきだと思う。

ただ、一方で倫理ギリギリの中で見えるリアルもあるし、歴史的な記録として残しておかなければならないという言い分も成り立つ。ベトナム戦争のナパーム弾の少女はその最たる例だといえる。

ミッションを持って報道カメラマンとして極限状態の写真を撮影し、、、なんて綺麗事を言うことは簡単だ。でもミッションだけで、ボランティアで活動している限りはいくら才能があっても続かない、ビジネスにしてこそ相互の関係ができ、今後もより良い写真が撮影できる。やっぱりお金は大事。

そうすると結果メディアに写真を売ることになるのであれば、作品にしてアーティストとして活動することと大きな意味では違わないのではないかと思う。アーティストは彼らの目線で現実を切り取る、それはこれまで目を向けなかった人たちに興味を抱かせる仕掛けになり得る。これにはとても大きな意味がある。

いずれにしても写真家という存在はとても、ややこしい煙たい存在なのかもしれない。そりゃそうだ、全面的に後押しされてしかるべきな医者だって、「治療は続けるべきだ」「いやそうじゃない」とあちらが立てばこちらが立たない状態になったりする。ブラックジャックによろしくなんてこんな場面ばかりだった。

写真家はカタギではないと土田さんは言っていた。犯罪性もあるし、誰かの心を踏みにじることもあるだろう。大勢のために一部の人を晒すことになるかもしれない。いつだって、100%納得されることはないだろう、ただしその議論は写真がそこに「在る」ということが前提だ、必要と感じればやはり撮るんだろうと思う。そういう意味では僕は撮る方に一票を入れたい。

今起こってる世界を見せるために過去と未来に挟まれ、見えない世界を見せるために道徳や倫理に責められる。誰もが納得する答えなどどもどもないのであれば、誤解を恐れず、危険を顧みず、腹を括り自身の葛藤を作品を通して、見る側にもその問を投げかけることだ。

良いものを撮ろうとするアーティストとしての欲望、執着、狂気をもつ一方で、「人間」としての倫理、配慮、疑念も隣に置いておくこと。この相反する気質を同居させることが現代のアーティストとして必要な資質ではないかと思う。

ほんと知れば知るほど、ややこしい世界に足を踏み入れたものだと思うけど、その分考えなかったことを考えられるし、視ることを最大限に楽しめる人種であることは間違いないので、やはり楽しみなこれからだ。


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