斜め上4mにいた私と同居していたときのこと


先日飲んでいるときに、ふともう一人の自分がいたことを思い出した。もう結構前の話だけど、結構自分にとっては大切な経験だったように思うので思い出しがてら書いてみた。

さて、僕は数年ほど二人目の僕と同居していたことがある。高専に入学し親元を離れ、これまでとは異なる環境に身をおくようになり、数ヶ月立った頃からだと記憶してる。ある日同級生と話しているときに斜め上から自分自身を見ている自分に気がついた。だいたい地上4mくらいの高さからだった。自分の見えるはずがないフェンスの向こう側もなんとなくわかったこともある。

突然出現したそいつを当時は「うわっなんだこりゃ」と意識することもなく、なんとなく「いるなあ」くらいには普通に納得できて同居していた。そりゃ自分なんだからまあそんなに異物感がなかったんでしょうね。誰かといるときや外に出ているときに観察されてることが多かった。

もう一人の自分の出現のきっかけは、知人の変貌ぶりを見たとき。まあその変貌は平たく言うとデビューというやつの部類だと思うけど、昨日と今日とでいきなり変わってしまった彼を見て「何をやっているんだろうか?」と疑問に思い、見てるこっちが恥ずかしかったし、何というか冷めてしまった。

自分自身が彼をそんな目で見るもんだから、自分も周りにこんな風に見られているのかと意識するようになった。そんな経験から日々の過ごし方、自分の在り方を考えるような時間が増え、他人と私の境界に位置するような曖昧な距離にもう一人の自分まで出現させることになっちゃった。

もう1人の自分が出てきてからは、何かをしているとき逐一自分に観察されるようになったわけで。そうすると、見られているという意識が強まり、これまで以上に周りにも気を配らなくてはならなくなる。「斜め上のあいつがみているのだから、他のやつが見てないはずがない」とか、そんなふうに考えるようになった。ただ、疲れることや面倒なことも増えたけど、これまでの自分よりも視野は広がったろうし、考える深度についても深まったとか良い側面もあったとは思うけど。

一方で集中する、熱中するということは少し自分の奥に引っ込んだようにも思う。何事にも距離というものを置くようになった。距離をおいておけば、選択肢も増えるし眼の前のこともよく見える。何かあってもリスクも最小限だし。

バカはするし危険なこともしたけれど、それが自分の得になるからやるだけで、向こう見ずなのとは違う、後先考えずにバカをするのではなく、後先を考えた結果バカをする。そんな合理的な損得勘定での判断が常態化していった。

歳を重ねるにつれ、徐々に斜め上の彼が姿を現さなくなっていた。当時は全く気にしていなかったけど、最近当時のことを思い返すと「あいつはいつ消えたんだろう」と不思議になる。

ただ、彼は見えなくなっただけで、自分の中にいるなだろうなあと思うことがある。異なる性質の価値観が同居しているということに最近はっきりと気づいたから。論理的に物事を考えていると思ったら、子供のように直情的に決断したりする。周りは見るのに、そのうえで気にしないとか。

その状態については、納得するフシもある。当時は他人の目を気にしつつ、もう一人の自分の目を気にしていた。ただ、それが徐々に他人の前に自分に見られる(評価される)わけだから、その1次審査を通った言動については、他人の目をそこまで気にしなくても良いのではないかというもの。

ようやく今になって、二人の自分が馴染んできたかなという感じ。そして今もまたそこから変わっていっている気もする。自分だけでなく、もう一度外界との接点を大切にすることにチャレンジしてみようというもので、感情的に社会と関わることで生まれる結果を見てみたいように思うのだ。

ということで現在のテーマは「考えるな、感じろ」であり、当分はこれを意識して過ごしていきたいなとなんて思ってるようだ。


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