日本書道におけるかな文字の成立と日本人の精神性


こんにちはいむりんです。僕実は毎年テーマを決め書に関する研究を行うチームに所属していまして、本年の書の研究は、「日本の書の美」と題して、固有の文字を持たなかった我が国において、どのように文字が伝わり、そして「かな」が生まれるに至ったのかをおっていきました。(写真は日本っぽいものをということで先日の長野の田舎的風景にしています)

すべては必要だから生まれる

この活動なかなか面白くて、ただ書道というお稽古を行い、字がうまく書けるようになるということだけでなく、「ああ、この表現、必要だったから生まれたのか」みたいなHOWではなくWHYが見えてくるんです。今回は現存する資料等から推測するしかないので、少しもやっとする部分も残りましたが、いつも無意識的に使っているこの日本語を改めて見直してみるよい機会になりました。

このような研究を振り返って、全てのものはそれが必要とされる背景があり発明されるものなのだと改めて認識しまして、これはつまり人間の進化の過程だといえるんですよ。テレビも飛行機もPCもスマホだって、やはり人類が次のステージに行くために必要にかられて作られていると思います。(ときには原爆のように望まない結果を生み出すものもありますが…)言葉も同じくそうした人類の精神的な成長、進化の過程において必要だから変化を遂げたのではないでしょうか。

日本人は控えめ、、、ではない!?

文字を持たなかった日本は中国から伝わった文化、文字を昇華することで、日本ならではの文化を追い求める国風文化へと移り、和歌(古今集等)のリズムを表現することなどを狙いとして「かな」は成立していきます。そこで私はこんなことを思ってしまいました。

よく「日本人は控えめである」、「自分を語らない」、「自分を出さない」このよう言われますが、実はそんなことないのでは?という疑問が生まれました。

だって、詩をリズムまで表現したいとしてカクカクの漢字をまるっこいかなに変化させてしまう程の情熱です。そしてそれでは飽き足らず、墨ののせ方から永遠と続くような連綿が見られ、終いには行間を失くし字をぶつけてしまうほどの表現の多様さが見られるのです。こんな行いは控えめな人ができることではありません。

多くの場合、文字はその単語や文脈から書き手の感情を読み取るもので、解釈の一部は読み手に委ねられる部分があります。しかしまるで話しているかのように伝えようとするこのかな独自の表現の主体は間違いなく書き手だと言えます。「出来る限り私の想いを汲み取れ」と言わんばかりです。私は今回の研究を通して貪欲に自身の気持ちを伝えようとする、表現しようとする当時の彼ら(日本人)の姿を想像してしまうんです。

もっと貪欲にもっと自分を出して

控えめで謙虚なことはもちろん大切なことですが、誤解を恐れずに言うと、もっと私たちは表現することに対して貪欲に、自分勝手になってもよいのではないかと思ったりもしました。

今回だけでなくこれまでの研究会において、最後に戻る場所は国や時代も関係なく、書き手の精神性でした。要は気持ちがこもっているか?ということだと思います。気持ちを込めるということは、言い換えればもっと自分自身を出すことだと思います。

お手本の通りに書くことは重要ですし、いきなり逸脱したことをやっては「何やってんだ」とお叱りをうけることにもなるでしょう。でも時には指摘をもらうくらいに溢れ出してみるのも面白いのではないかと思うのです。ということで、今後も自分の書を求めて紙なんかも気にせずに書いてやろうと思っています。


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