生きづらさを打破するための中動態的スタンスによる芸術表現


今回とある講義を受ける機会に恵まれた。それまで私は表現者という存在に偏った見方をしていたようだ。具体的には表現者は「描きたいから描く」私はそのように考えていた。しかし今回参加した講義(社会学と芸術の関係性を論じた講義)の中で紹介された表現者のうち純粋に表現したいと考えて制作していた人はどれほどいたであろう。

能動的に描くというスタンスをとりつつも一方で、描かされているという側面に注目し、本レポートは「中動態的スタンスによる芸術表現」をテーマに進めていきたいが、本題に入る前に私の社会学への解釈と芸術との関係性について、講義で学んだ障害を持つ人々を題材に述べておく。
※中動態についてはこのページがわかりやすいです。


(写真は複数回にわたる講義の合間に撮ったもので本文には関係ないです)

社会学と社会学的観点に基づく芸術の役割

まず政治学や経済学、法律学等は一定の領域のもとで議論を展開する学問であるが、社会学はそれらを包括し、またはそれらがカバーしきれない部分までもを拾いあげる守備範囲の広い学問であると認識している。

守備範囲が広がるにつれ断定的に物事を理論づけたり、捉えることには困難になるが、逆にその不完全さが答えの持たない問題に対してアプローチする上で重要な役割を持つものと考える。具体的には本講義で紹介された社会的マイノリティ(摂食障害者や精神障害者等)が排除されてしまう閉塞的な社会や人間活動のフィールド(家庭・学校・職場等)が持つ問題に向き合うための切り口として重要な役割を果たしている。

ただし答えのない問題に対して解決を目指すことは難しく、それは大海原でコンパスも地図もなしに目的の島を目指すようなものであると思う。ここでは解決ではなく寄り添う姿勢が重要であり、問題を抱えた本人だけでなく、彼らを取り巻く人達にも一定の受容姿勢が必要になる。この一つの架け橋となるのが芸術表現だと私は解釈をしている。

我々が悩みを友人に相談するように、社会的マイノリティに属する人々は自身の心と向き合うプロセスとして創作を行い、作品を通して鑑賞者と対話するのである。まさにジョン・デューイが発した「芸術の表現活動は、自己と環境とのいずれにもなかったものを両者が得るという時間的経過に伴う創発的プロセス」であり社会に取り残された人々が、もう一度社会に自分の身を置く場所を形成する行為として、言葉の代わりに芸術が活用されていたのである。
※ジョン・デューイ 20世紀最大のアメリカの代表的な哲学者、教育学者。著書「経験としての芸術」が秀逸。

今回の事例においては芸術という側面からコミュニケーションを行うことに一定の効果を見い出しているが、鑑賞者の属性、つまり多様性を受け入れる素地を持つ芸術領域を住処とする人々と、その他大勢の社会の住人において結果は異なると思う。ただ、彼らの作品の本質を理解することに必ずしも芸術的教養を持つことが必要なわけではない。

中動態的スタンスによる芸術的インパクト

今回多くの社会的マイノリティの方々の作品を拝見し、表現方法こそ様々であったが共通項も見出すことができた。それは自ら筆を取る能動的行動であるにも関わらず、「描きたいから描く」のではなく「描かねばならないから描く」という受動的な姿勢である。ただし、一般的な受動的な姿勢とは異なり他人によって強制されているのではなく、自分自身によって描かされているという複雑な心理的葛藤が確認できた。

この現象と似た事例を國分功一郎著『中動態の世界 意志と責任の考古学』においても確認できる。こちらも医療の現場、特にアルコール依存症や薬物依存症の患者を例に解説している。例えばアルコール依存症患者はアルコールを自らの意志で主体的に「飲む」という行為を持ってアルコール物質を体内に取り入れるわけであるが、その元を辿れば酒を過剰摂取しなければならないという本人がコントロールできない異常な事態が前提にある。つまりその異常な事態によって本人の意志とは離れたところで飲まされていると解釈可能になり、単純に主体的な行動とは言い難い。

このプロセスはアミティプログラムに参加する受刑者にも共通する。罪を犯した受刑者はその殆どが、過去に虐待された過去を持つ被害者であった。実際にそのモンスターとしての人格を形成するきっかけとなる行いを働いた加害者が存在することを考えると、加害者であり被害者である彼らを一方的に見捨ててよいという判断は短絡的だ。被害にあわれた方の心のケアが最重要課題には違いないが、この加害者であり被害者という事実にいかに寄り添うことができるのか、考えることから逃げてはいけない。
※アミティプログラム:反社会的行動や自傷、他害を含む依存行動の再発防止を狙いとしたプログラムや社会復帰施設を指す。これ見るとわかりやすいかも。

話を戻し、様々な障害、疾患を抱えてしまった彼らの作品を鑑賞する上でも同じことが言える。表面的な鑑賞で終始することはその本質の理解には程遠く、制作プロセスのその奥にある過去、出発地点までをも理解した上で鑑賞することでようやく作品と目が合うのである。彼らの作品は描きたいのでも描かされているわけでもないという中動態的なスタンスにより、周りの環境への働きかけと自己の内面との対話という相乗効果が生まれより訴求力が増しているのではないだろうか。

実は、私達がいる世界でもこのような中動態的な行動は日常的に見られる。企業人においては日々能動的に目標に対して向かう姿勢を持ってはいるが、実際は自身の定めた目標でないことなど珍しくなく、能動的に動いている風であっても愚痴や文句は日常茶飯事である。異なるフィールドかつ、負の側面における中動態的スタンスで生きる我々は、今こそ彼らのこの人間としての訴えが凝縮された魂の表現を通じて自身の生き方を省みることが必要ではないだろうか。


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