吉田修一 × 地獄の思想〜社会構造が生み出す生きづらさの連鎖〜

日本人にとって地獄はってわりと馴染みの深い概念です。悪いことをしたら地獄に落ちることになっていますね、そして地獄在住の閻魔様にもっれなく舌を抜かれたりますよね、我々は。さて、梅原猛氏の「地獄の思想」という書籍を読みました。この書籍の中で梅原氏は見事に地獄を解釈し、解説しており地獄のことに関しては、この本を見ればバッチリ。特に日本の文学と地獄のつながりを説いています。

さて、私は吉田修一という作家が好きなんですが、彼の作品はハリウッド映画のようにスカッと終わるという話ではなく、むしろ「ああ、読まなきゃよかった」と読み終わったあとに思うことも少なくありません。ところが、暗く沈んでしまうような心にしこりを残されるだけでなく、どことなく爽やかな後味を感じていることも否定できないという不思議な、、、めちゃくちゃ美味しいというわけでないけども、また食べたいという料理に似ているかもしれません。

秋から冬にかけて季節が移り変わる公園で、カラッとした風に少し肌寒さを感じながら、買ってきたスープを飲んいる。飲み干したあとのカップの底を見ると「あ、、、」少し具材が残ってしまっている。例えるならそんな感じかもしれません。

吉田修一作品のその殆どは特別な場所が舞台ではないし、特別な誰かの物語ではない。ありふれた普通の日常が舞台で、普通の人に焦点をあてて描かれる。ただそんな日常回っている歯車に小さな歪が確認される。その歪が大きくなり、結果として隣人の隠れた狂気を見ることになる。

自分で読まなきゃよかったと思うのに、読んでしまう。どうしてこんなにも彼の作品に惹かれるのか、これまで言語化できずにいましたけども、このたび梅原猛氏の「地獄の思想」の世界に触れたことで、ああなるほどと。仏教が人間の基本に苦を見る限り、いま我々が住まうこの現世は苦の世界であり、つまり地獄であるというような表現がなされていた。彼の作品は現代の地獄を表現しているのではないかと思うのです。

この世界は一見うまくいっていると思われ、そのように人の目には映ってますが、たったひとつでも歯車が狂えばどん底に転落してしまうような危うさを抱えているのではないでしょうか。そしてその綻びの一端は、人間誰しもが抱えているのです。そんなことで、彼の作品は現代社会においての地獄を表現しているのではないかと思った次第なんですね。そして私たちは誰しもが彼の作品の主人公となりえるのではないか、と物語の枠を超えて今生きる現実世界そのものへの恐怖を感じざるをえないのです。

今回は彼の作品の中に見られる地獄的観点を述べていこうと思いますが、その中でも現在の地獄を表している作品として『怒り』をあげたいと思います。2016年に渡辺謙に森山未來、妻夫木聡、松山ケンイチなど日本映画界を代表するキャストが結集し李相日監督により映画化されということでも注目を集めた作品です。

物語を要約すると、「怒」という血文字を残して未解決となった殺人事件を巡って、千葉、東京、沖縄の3つの舞台で時間軸を同じくして3つの物語がパラレルで展開される。異なる舞台のそれぞれでフォーカスされる男性3名、彼らの誰かが犯人である。見えない過去や、怪しい言動、周囲の人間が翻弄し、また翻弄されていく、、、とこんな感じで物語はすすんでいきます。

「地獄の思想」の中で触れられている地獄は、宗教的な側面からの解説がベースとなっており、極楽浄土と対比される形で地獄が確認されましたが、この物語においては極楽浄土に変わる絶対的な救いは見られません。

この日本においても格差や差別など住みづらい人たちが注目されてきており、劇中では様々なバックボーンを持った人たちが描かれています。片親で風俗勤務、日雇い労働者、性的マイノリティ、米国兵のレイプ被害者、、、それぞれ生きづらい立場に置かれながらも必死で自分自身を確立させようともがくのだけど、環境がそれを許しません。

この物語の地獄は個人それぞれの地獄ではなく、かといって日本全体の地獄でもない。限定された人々の過去から受け継がれる地獄、つまり生まれた土地柄、育った家庭環境などで、自分自身ではどうにも変え難く続く地獄の連鎖、しがらみなんですね。この中で望む望まざるに関わらず、生きるためにもがかなければならない。自分自身が選択したわけでなく、生まれた瞬間に運命づけられています。

そうした人々は一体この世の中のどこに拠り所を見つけられるんでしょう、社会の中に地獄があるわけではなく、社会そのものが地獄なのではないかと思うのです。「社会構造が生み出す生きづらさの連鎖」とでも言える地獄ではないでしょうか。

このような生きづらさを抱えた人たちには、少なからず隠しておきたいことがあることでしょう。ただし人は信頼を提供するためには全てを確認しておかなければなりません。そうして人は詮索してしまう。それは貶めたいという気持ちではなく、むしろ信頼したいという前向きで好意的な行いなのであるが、往々にしてこうした行為は破滅への第一歩となってしまいます。

劇中においても、おかれた環境や状況によって最も近しい存在ですらも疑ってしまいます。そしてそのような行為を自己嫌悪し、頑張って時間をかけて留めていた形はもろくも崩れ去る。喪失感の次に来る虚無感。普通であることの難しさ。根源的に後ろめたいこと(自分自身の過去)に苦しめられ、罪の意識ががあるために、全ての行いが罪滅ぼしという意味を内包する状態において、心の底から喜ぶことなどはできないのかもしれません。喜んではいけないとさえ思ってしまっているフシすらあることはこの物語に限ったものではないですね。

こうした心の変遷はまさに書籍の中でも触れられていた「平家物語」においての重盛に見ることが出来ます。平家滅亡の流れに憂いつつも、自分自身は悪行を働いてしまう。しかし悪行と同じだけ善行を行う行動はどこかでバランスを取ろうという気持ちが働いた結果である。善行はますます意図的になり、自らの心を置き去りにしてしまうんですね。「怒り」においても「平家物語」においても、行いの結果は残ったとしても、彼らの心はいったいどこにやすらぎを見られるのでしょう。

生きるために、仕方なく悪事をはたらくこともあることでしょう。そのような手段しかとれないこともきっとある。でもしかし、その環境に追いやった責任を無視して、その行動だけを裁くことなどできやしないのではないか、罪を憎んで人を憎まずとはよく言ったものですけど、実際は過去のバックボーンに焦点をあてられ、罪よりも人が憎まれがちな風潮があるように思います。

例えば先日のエントリで触れましたが、アルコール依存症です。アルコール依存症患者はアルコールを自らの意志で主体的に「飲む」という行為を持ってアルコール物質を体内に取り入れるわけで、一見すると個人の問題であるかのように思ってしまいます。

しかしその元を辿れば酒を過剰に摂取しなければならないという本人がコントロールできない異常な事態が前提にあるわけで、つまりその異常な事態によって本人の意志とは離れたところで飲まされているという地獄的な構造が垣間見られます。過去や環境という地獄によって作り出された被害者という視点は無視できません。また罪を犯した受刑者はその殆どが、過去に虐待された過去を持つ被害者という統計もあります。地獄的な環境が人を変え、次なる疑獄の連鎖を生み出す、このような社会構造が生み出す地獄の螺旋は明らかに現代版の地獄を象徴しているように思うわけです。

話を戻すと、このような社会構造が生み出す地獄的な環境における問題点は、それが社会全体からみるとマイノリティだからに他なりません。ようやく近年は政治という文脈ではなく、個が旗を振り賛同する共同体がムーブメントを起こす動きが見られるようになりました。こうした動きを加速させるためには、マジョリティの意思表示は欠かせません、我々は現代社会において個人の意思表示で地獄と向き合わなければならない、それが現代なんではないでしょうか。

ただ神仏が作り出した地獄思想ではなく人が作り出した地獄であるならば、この地獄は人々の手によって解決出来るはず。簡単なことではないですが、僅かでも向かうべき光は確かにあります。「怒り」のエンディングにおいても地獄の中に小さな光を見出したエピソードもありました。同じ光でも闇が深ければ深いほど、光の輝きは増すの。吉田修一の作品は恐怖感とどうしようもない気持ち悪さを感じずにはいられないんですが、そのどうしようもなさの中に、一陣の風が吹き抜けたようなさっぱりとした絶妙な気持ちにさせる、小さな光があるんですね。

ということで今回は地獄×吉田修一でお送りしました。

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