心の描写と人類の武器

自分の心を描写するという文章講座を受け、私は少し怖くなった。これまで自分の気持ちと思っていた発言が、状態の観察記録であったり、対象への評価や感想だったという事実に気づかされたのだ。言われるまで全く気付いておらず、感情を置いてけぼりにしていたことにショックを受けた。

そしていざ感情を表そうと意識してもなかなか出てこないのだ。これが私だけの話であれば、「もうちょっとしっかりしなければ、意識しよう」で済む話だが、どうやらこれは個人だけではなく、日本全体が抱える病なのだということに危機感を感じた。

これまでの日本は我慢や忍耐が美徳とされ、自分の内面をさらけ出す事は良しとはされなかった、ただそのような時代はグローバル化ととともに終りを迎え、自分自身の意思表示なしにコミュニケーションは成り立たなくなっている。

それに輪をかけるように、語彙力が乏しくなっている我々である。私たちは言語を通じてしか物事を整理し、伝えることができない。それなのに、自分自身の気持ちを表現する言葉を失うということは、感情そのもののコントロール権までをも放棄することにはならないだろうか。もともと感情表現が下手くそな我々から言葉を取り上げられたらと想像するとゾッとする。

例えば事件の容疑者の供述にも「むしゃくしゃしてやった」というような発言を聞くが、これは言語化できず整理できないために理性で処理できず、本能に任せた最も野蛮な行為に及んでしまった結果ではないか。

言語化し共有することで進歩を遂げたのが人類である。今私たちは他の生物にない唯一の武器を捨て去ろうとしているのかもしれない。近年AIの進歩により様々な懸念が抱かれるが、根本的なところに立ち返れば、AI技術の進歩が問題なのでなく、結果として人類自身で考えるという行為を辞めてしまうことなのではないか。

ちっぽけな人類にとって言語はとても大切だ。考えなくても生きていける時代だからこそ、一度立ち止まって考える、そのために感じることを意識する時間を持たなければならないのではないか、自分の心を描写するという簡単なようで最も難解な行為の中で感じたのは、人間としての在り方であった。感じこと、考えることを辞めた順に我々は、人類に変わる存在に食われ始めるのかもしれない。

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