【京都芸術大学/学芸員課程履修レポート公開】列島考古学

こちらでは、通信にて京都芸術大学の学芸員過程で履修したレポートをアップしています。

今回は学芸員過程の1つである【列島考古学 「モノ」を通じて考える日本列島の歴史】についてです。

京都芸術大学の学芸員過程選択科目:列島考古学のレポートテーマ

学芸員過程の選択科目【列島考古学】のレポート提出課題における、シラバス記載の到達目標は次のようなものです。そのまま引用します。

 考古学とは、過去に人々が残した痕跡(遺物・遺構など)を分析し、人類の活動とその変化をあきらかにする学問です。 文字情報とは異なり、考古資料は自らが語ることはないため、それらの資料を分析・解釈を行うことで、歴史があきらかとなります。 考古資料の分析方法を学びつつ、地域の博物館などを訪れ、考古学研究の実際に触れ、歴史遺産と現在の関係についての理解を深めます。 私たち人間は、自らを取り巻く自然環境や、人文環境の中で生かされています。 この授業では、考古学的な研究によって明らかにされてきた人類の営みを学びながら、人が生きていくために獲得してきた智慧や、日本の文化・社会が形成されてきた歩みについて考えていきます。
京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)シラバス2021から引用
藤本強 『市民の考古学4 考古学でつづる日本史』同成社、2008年

という書籍を参考に、以下の2設問についてレポートを記載していきます。

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【設問1】 旧石器時代以来の「移動する生活」から、縄文時代以降の「定住する暮らし」に変化していく過程について、当時の環境変動との関わりに留意しながら1600字程度のレポートにまとめなさい。 レポートでは、縄文時代の定住化と、日本列島以外の地域における定住化との差異についても触れること。

【設問2】 文字を使用する文化が、弥生時代から古代にかけての日本列島社会に受容され、次第に定着していった過程について、当時の国際関係・国家形成との関わりに留意しながら1600字程度のレポートにまとめなさい。 レポートでは、弥生時代・古墳時代・古代の各時代における具体的な出土文字資料を取り上げて説明すること。
京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)シラバス2021から引用

【設問1】 旧石器時代以来の「移動する生活」から、縄文時代以降の「定住する暮らし」に変化していく過程について、当時の環境変動との関わりに留意しながら1600字程度のレポートにまとめなさい。 レポートでは、縄文時代の定住化と、日本列島以外の地域における定住化との差異についても触れること。

旧石器時代から縄文時代への移行は、自然環境の変化と人類の歴史・文化発展という観点で大きな出来事であったが、その大きな要因は気候の変化である。旧石器時代の最寒冷期は現在よりも5−7度も年平均気温が低く、気温の低下で海水面も今よりも100mも低下するほどであった。この気候変動の影響で日本列島の大部分の地域から照葉樹林は消え、落葉広葉樹林が広がり、山や高原、北日本には針葉樹林が拡大していったと考えられる。こうした寒冷化に加え短周期で気候が変化する不安定な環境も相まって、主要食糧としての植物資源の確保が困難になったことで、旧石器時代の人々は自然環境の変動の中でも生きていける中大型動物を食糧の主体にすえ、狩猟することを前提に移動しながら生活を行なっていた。こうした「移動する生活」から日本列島における「縄文時代の定住する暮らし」に変化していくうえで、温暖化と日本列島の特徴、資源の豊富さ、そして土器の発明が要素としてあげられる。

まず日本列島以外の地域での定住について触れておく。東アジアでは長江の中下流域でコメの農耕、黄河流域ではアワとキビの農耕を元に定住。中国東北部、ロシア沿海州、朝鮮半島では狩猟、漁労、採集によって定住をはじめるが、その後中国起源の農耕を受け入れて定住。世界各地も東アジア、西アジア起源の農耕を受け入れる選択をし、中には稲作と漁労を組み合わせたり、農耕と豚の飼育を組み合わせたりと地域ごとで異なる定住化が進んでいった。(狩猟、漁労、採集を生活手段に据える場合は、定住することなく移動生活を継続することがほとんどだった。)このように日本列島以外の地域では基本的には農耕を主体とすることで実現していた。

一方で縄文文化は狩猟、漁労、採集をベースに定住する世界的にも珍しい文化が形成された。それを可能にしたのは日本の環境であった。具体的には日本列島は、森林や水辺が多く、平野が少なく、小さなエリアに様々な生態系があったことで、それらを効率よく回れば狩猟、漁労、採集で生活することができた。また季節ごとにその組み合わせや割合を変えることでさらに効率性・生産性を高めることができた。逆に畑作農耕を行ううえでは耕地の確保、雑草の除去など手間の方がかかってしまい、効率よく農耕がおこなえる環境でなかったとも言える。環境に合わせて妥当な手段として狩猟、漁労、採集が選択されたのである。縄文文化は地域によって差はあるが、安定して毎年得られる植物性資源をメインに据え、そこに季節ごとに得られる資源や貯蓄システムを加えるなどして、エリアごとで独自の生業システムを構築していた。

こうしたシステムの構築に加え、縄文土器を発明したことで、定住する上での強度を高めることに成功した。土器を使って煮ることで、そのままでは食用として使えないものも食べられるようになり、また収穫が得づらい場合のために土器を用いて貯蔵する方法も編み出した。一年を通じて定住して暮らすためには、1つのエリアから動ける範囲で季節ごとに食料を獲得する仕組みを構築することが求められる。陸上の資源、海の資源に恵まれた縄文人はその資源を最大限に活かすために、季節ごとで狩猟、漁労、採集の割合を変えるなどの収穫サイクルを定め、また道具を発明するに至った。

このように縄文文化においては定住化を可能にしたのは、日本列島の多彩な環境、特徴をよく理解し、少ないエリアで多品種少量の資源を生かす道具の発明や仕組みを構築したことが大きかったと言えるだろう。しかしながら縄文時代の後期には気候は冷涼化し、資源の収穫量も減ることになる。これ以降は大型魚類の捕獲やアク抜き技術の進歩、ムラ間の交易を発展させる「一村一品運動」などの新たな動きが見られるようになり、同時に他のムラからの資源確保のための結束固めと、そのための儀礼祭祀の導入・階層的な社会を構築していくことで、定住化を試みようとする動きにつながっていくのである。

本文総文字数1628

【設問2】 文字を使用する文化が、弥生時代から古代にかけての日本列島社会に受容され、次第に定着していった過程について、当時の国際関係・国家形成との関わりに留意しながら1600字程度のレポートにまとめなさい。 レポートでは、弥生時代・古墳時代・古代の各時代における具体的な出土文字資料を取り上げて説明すること。

文字は弥生時代において大陸から導入されたと考えられている。水田稲作技術や金属器をはじめとして、様々な技術や道具を取り入れる過程で付属的に文字が入ってきたようだ。水田稲作文化は長江流域で興り、その文化が朝鮮半島を経由して日本に伝わったと考えられている。当時中国は戦乱の時代であり、秦が中国を統一するまで500年以上も戦乱が続いていたと言われている。弥生文化が九州北部から興ったと考えられているのは、戦乱を避けるために日本に渡来した人々や、新たな経済活動を求めて渡来した人などによって、朝鮮半島を経由して長江中下流域から伝わった。弥生文化のムラ・住居・水田・石器と同様の要素が朝鮮半島南部で確認されていることからもその可能性は高く、大陸と日本で交易が行われていたとされている。中国の史書「後漢書東夷伝」にも、日本と大陸との交流について記されている。この史書の中で倭奴国が後漢から金印を授与されたと記載されているが、実際に江戸時代において「漢委奴國王」と刻まれた印が九州北部で出土しており記事の信ぴょう性は高い。

こうして水田稲作農耕を基盤とする弥生文化が本州・四国・九州の大部分に定着していくことになる。世界においてはほぼ例外なく、定住生活は文明を発展させている。日本も例外ではなく、この水田稲作農耕を基盤にして文明は発展していく。小さなムラを集めたクニを生み出したようにコミュニティの規模も弥生時代には、縄文時代よりも大きくなっている。水田稲作農耕は食料自給のみならず今日の社会基盤を形成するための第一歩であり、いわゆる日本文化の源流ということができるだろう。稲作農耕によって余剰食糧が生まれると、維持管理するための記録方法やルールを整備する必要性が出てくる。その過程は貧富の差を生み、リーダーとしての役割を担う人物の出現、それに伴って身分の区別、権力が発生することになる。最も有名なのが邪馬台国の卑弥呼であり彼女は呪術や儀式を用い、また大陸の魏の力を後ろ盾に日本列島において約30ものクニを支配したとされている。

古墳時代では権力を誇示する姿勢がさらに強まり、その権威を見える形で表現するうえで代表的なものが古墳であった。古墳は規模が大きいほどその人物の権威が大きかったことを意味するものであった。また出土する鉄剣にも銘文が刻まれていることも確認されている。この時代においては、まだ文字は特権階級者などごく一部でしか使われていなかった。つまり文字を所有物に刻むことで、社会的な地位や権威を示していたと考えられる。文字情報における内容よりもそれ自体が権威の象徴であったと見ることができる。さらに古代になると地方に散らばった小さなクニを統治して、中央集権国家を築く動きが出てくるが、その際に文字が活用されたと見られ、文字の活用の方法や使用する意図がより洗練されてくる。大国を動かすためには口頭のコミュニケーションだけでは成り立たず、文字による記録と伝達が必要不可欠である。古墳時代において出土される文字史料は必ずしも多くはないが、その出土範囲は広く、中央だけでなく地方からも発見されている。つまりこの時代では、地方の末端にまで文字が普及していたのである。

加えて古代の役所施設では木簡が多数出土し、地方でも円面硯、木簡を削るための刀子など筆記用具と思われるものが発見されていることから、地方組織の末端まで徹底した文書主義が行われてきたことがわかる。また現物徴税の荷物につけられた荷札も納付先の藤原宮や平城宮で木簡の形で多数出土している。徴税のためには戸籍の編成が不可欠であり、当然文字の使用が前提になる。つまり全ての里で文字を読み、書ける人がいたと見ることが自然である。また仏教が興隆したことも文字を広めることに貢献していると考えられる。有力氏族が競って寺院の建立を行い始めるが、建物だけでなく経典が必要となる。聖徳太子は仏教を政治に活用しようと、各地の寺院に経典を届けるための写経所を設け、写経生たちによって国家事業としての写経を行った。文字は当時の国家運営するシステムの中で自然と溶け込んでいったのである。

本文総文字数1700

 参考文献

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