映画「沈黙」から自分が信じるものの扱い方について

先日、沈黙という映画を見た。日本舞台の隠れキリシタンの話ということしか知らずに鑑賞したのだけど、先入観なしに見てよかった。

1人の宣教師の苦悩を描くことを中心に彼を慕う信徒の信仰の強さとその信仰の扱われ方を表現した作品でした。表向きは。というのも信仰はもちろんだけども、一神教信者の少ない日本人にとってはそういう見方の方が入りやすいかもしれない。そういう意味では尊厳や信念といった人間の根底を問う作品だった。

残り少なくなった自転車が休む駐輪場

自分が信じるもの(この映画の場合宗教)が弾圧されたとき、果たして自分だったらどう振る舞うのだろうかな。いろんな選択肢が頭をよぎる。

・自分に嘘をつくくらいなら、死んだ方がマシだぜ、今のまま散る所存

・とりあえず1回いうこと聞いておいて、実はみたいな感じ。でも1回は嘘をついた、しんどい、うそつかないほうがよかったかも、でももはや戻れない

・とりあえず1回いうこと聞いておいて、実はみたいな感じ。でも1回は嘘をついた、それでもひっそりとでも今気持ちを持っていることが大事

・完全にその通り、そういう見方もあるんだろう。これからは新しい道をいこうかな

正しいことなどはないだろうから、自分にとって何が一番気持ちいいか、気持ち悪くないか。これはそのときになってみないとわからないだろうな。

バスに座って前を向く

信仰とはなんぞやと考えた時に、窪塚演じるキチジローという弱い人間がまず頭をよぎる。全く信仰心のない自分なので、想像するしかないんだが、キチジローを通して考えた時、良い人間を包み込んでくれる「絶対」がその正体に近いのかもなあと。

そして、そんな弱さを包む絶対を信じる強い心が信仰心であるならば、その心を向ける対象がある限り、きっと1人にはならないだろうし、心強いんだろうなって思う。良き考え方だなと思う。

強くなるための第一歩が弱さを知ることとかよくなんか映画とか漫画とかで聞くフレーズだけど、これと同じなのかもしんないなあ。

バドミントンのラケットがいる

極限状態になった時、これまで信じていたものを捨てられるか。次の日になかったことにできるのものなのか。そして、心を造り変えようとする行為の恐ろしさを少しわかった気がする。人に変われというのって、安易にいってはいけない。自分の言動を思い返す作品となりました。

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