書道12年、先生との別れに際して──墨と筆が教えてくれたこと

こんにちは、いむりんです。私は12年間、書道を続けてきました。

そして今年、その12年間を共にしてくれた先生が東京を離れることになり、私も会から離れることになりました。

節目というのは、振り返るための時間をくれます。12年分の学びを、先生への感謝を込めて、ここに書き残しておきたいと思います。毎年、会の広報物を作成していた兼ね合いで、会のみんなに向けて書いてきたメモがあります。写経の話、余白の話、「書く」と「描く」の違い、熊野古道を歩いて気づいた巡礼と書の共通点、そしてAIが台頭する時代における墨と筆の価値。一年に一度、書道について考えたことを記録してきたこれらのメモを、この機会にひとつの記事として整理しました。

書道をされている方にも、そうでない方にも、何か引っかかるものがあれば嬉しいです。

 

書道とは何か──「文字の美しさ」の先にあるもの

書道を辞書で引くと「書くことで文字の美しさを表そうとする東洋の造形芸術」と出てきます。なるほど、確かにそうなのだけれど、12年続けてきた今、この定義だけでは少し物足りなくなってきました。

「美しいとは言えないけど、無視できない」書に出会ったことがあります。逆に「美しいけれど、響かない」書にも出会いました。美しさの追求だけが書道の本質ではないとしたら、では何を追求しているのでしょうか。

「文字は人を表す」という言葉があります。人の心は経験を積んで成長もするし、予期せぬ出来事に動じてしまうこともある。一つのところには定まらないものです。書が人を表すものであるならば、文字としての書を追求するというより、書を通して自分自身を追求するという方が正しいのかもしれない。そう思うようになってきたのです。

仮にそのような観点に立てば、自分自身を確認する手段として書を用いることができます。「美しい字を書こう」とする行為は「美しい自分を磨こう」とする行為と言い換えられるかもしれません。書を追求するには、普段の生活から見直さないといけない。そんなことまで考えてしまうのが、書道という営みの面白さであり、深みです。

自分自身を解像度高く表現できるよう技術を磨くこと。そして自分の人間性を磨くこと。この両方を続けていくことが「書道」なのかもしれません。

「書く」と「描く」──意識の違いが表現を変える

お稽古で毎月の課題をこなしているとき、ふと気づいたことがあります。私はついつい「描いて」いたな、と。

一般的に「描く」は絵や図に使われ、「書く」は文字に使われます。つまり私は課題の文字を、文字としてではなく図や記号のように形だけ真似ようとしていた。大きな声では言えませんが、草書で何という字を書いていたのか、どういう意味だったのか、わからずに提出していたことが過去にはありました。今は時効としておりますので、先生どうかご容赦ください。

意味がわからなければ、その文字をどう表現するべきかが見えてきません。逆に言えば意味がわかれば、表現する手がかりを一つ得たことになります。その文字が持つ意味を強化させる書き方もできるようになる。

例えば「寒」という字を一つとっても、厳しい寒さなのか、肌寒いレベルなのかを書き分けることができます。風が強くて寒いのか、凍てつくように寒いのか、これらを表現することもできる。こうしたことが「書く」ということにつながると考えています。

一方で「描く」場合もあると思います。書は絵や写真と同様に風景を切り取ってきましたし、目に見えない精神性を表現する手段に使われてきました。これらを意識したときには「書く」では物足りず「描く」という意識が必要になる気がしています。

書に向き合うにあたっては「書く」と「描く」を自覚的に使い分けることも必要なのかもしれない。これは先生のお稽古の中で、少しずつ気づいていったことでした。

余白の美──書かれていない部分が作品を作る

書の世界で最もインスピレーションを受けたのは「余白の美」です。書いていないスペースをいかに魅せるか、ということです。

先生にはずっと「文字が大きい」と言われ続けてきました。12年経った今も、余白をうまくとることには苦労しています。でも先生に言われ続けたからこそ、余白について深く考えてきたとも言えます。

ついつい日頃は文字の形ばかりを追ってしまいがちですが、作品は文字を切り取るわけではありません。用紙全体で世界観を表現することが求められます。余白が美しければ、結果的に文字がついてくる。ただ実際には筆を走らせることに意識が向いており、用紙自体への意識は低くなりがちです。

これは東洋の芸術全体に通じる考え方です。枯山水を思い浮かべてみてください。「見立て」という、存在しないものをさもそこにあるかのように感じさせてしまう芸術表現です。日本画においても、必要な部分のみを描き、余白を残して手をつけないという手法があります。

仏教の観点から言えば、無(空)は全てを内包していると捉えることができます。描くことは伝わりやすくなりますが、一方で情報は限定的になり解釈の幅は狭められてしまう。描かないことは全てを表現できるという可能性が生まれます。

余白が文字を構成するというくらいの気持ちで臨んでいきたい。先生に言われ続けたこの課題は、これからも自分で問い続けていくことになりそうです。

写経と懺悔──平家納経が教えてくれた書の「闇」

写経というと「心のやすらぎ」や「無心になれる」といった、精神を落ち着かせるような効能を求めて向き合うような印象があります。私もそう思っていました。ところが歴史を学ぶにつれ、その印象はがらっと変わってしまいました。

平安時代の写経、特に平家納経について調べたときのことです。平家納経が生まれた背景に触れると、様々な戦を通じて屍の山を築いてきた平清盛の心の闇が投影されているようなのです。光と影は表裏一体、闇が深ければその闇を照らすための光もまた強くなければならない。

平安時代においては写経は仏の功徳を得られる徳の高い行為とされていました。経巻をきらびやかに飾り立てることで、清盛は自身の罪滅ぼしの気持ちを表現したのではないか。そう考えられています。

この背景を学んでから実際に写経を行ったところ、心が落ち着くどころか、写経中は自分のこれまでの悪行が次から次へと頭の中に浮かんできてしまいました。さながら懺悔部屋にこもっているような感覚です。最初に思っていたような効能とは程遠く、ついぞ心が落ち着くことはありませんでした。

当然写経したからといって、過去の出来事を変えることはできません。しかし過去を振り返り未来を変えていくことで、過去に起こった事実の解釈を変えることはできるかもしれない。忙しい毎日を過ごしているタイミングでこそ、少し立ち止まる手段として写経を試してみるのも面白いかもしれません。

書道は「毛づくろい」である──コミュニケーションとしての書

少し書道から離れますが、人類は約20万年前に言語を獲得したそうです。それまでは猿と同じように「毛づくろい」を通してコミュニケーションを行っていたらしい。

現代においては言葉がコミュニケーションの手段の筆頭格です。この便利な言葉が発明されたことで表面的にわかりやすくなった一方で、毛づくろいをしているときにあったであろう「曖昧さ」や「わからなさ」を「汲み取ろう」とする姿勢が抜け落ちてしまったような気がします。毛づくろいによるコミュニケーションは、わからないものをわかろうとしなければ成立しないはずですから。

ある言葉を発しても、話し手と聞き手ではその言葉の持つ解釈は異なります。厳密に同じ解釈の人などこの世に一人もいないでしょう。それが両者で異なる場合には、誤解が生まれ、争いの種になってしまう。

書道の基本的な表現は文字です。同じ文字を書いても、誰が書くかで印象はまるで違います。自分自身だとしても書く日によって、印象や雰囲気は異なることを私たちは知っています。私たちは文字が持つ意味的な情報以上に何かを感じている。この「感じる」「汲み取る」ということは、他者との関わりにおいて非常に重要なポイントです。まさに毛づくろいと重なる部分があります。

書は基本的に一人で行うものですが、実は日々のお稽古は他者とのコミュニケーションにも転用できてしまいそうです。書にあてる時間は書のみに通じているわけではなく、その周辺領域や、そのまた外側の世界にも拓けている気がします。

熊野古道と書道──歩くことと書くことの共通点

2023年12月、40歳の誕生日に熊野古道を歩き始めました。大阪の天満橋から熊野三山まで、15日間で280kmを歩いた旅です。その記録も別ページにまとめています。

歩くという行為は、書道と共通点があると感じました。筆の運び方にリズムが大切なように、一定のリズムで歩くことで心の落ち着きや集中力が生まれます。また熊野古道のような巡礼の道を歩くことは、自己探求や精神修行の意味を持ちます。書道も「道」という字が入っている通り、書の道も修行の一つであり、日々の鍛錬を通じて技術だけでなく精神を磨くことにつながります。

実際に歩いてみて感じたのは、一日中無言で歩き続けることの豊かさでした。思考が整理されていくような感覚、普段は素通りしてしまうものを丁寧に拾える感覚。書道でいえば、筆を持ってただ一文字と向き合う時間に近いかもしれません。

世の中、全く別物だと思っているものでも意外に共通点を見出せたりするものです。日頃から限定的に物事を見るのではなく、視野を広くして世界を見つめていたいものだと思います。

「道」としての書道──プロセスこそが修行である

日本の文化には書道、華道、茶道、武道など「道」がつくものが多いですね。日本の文化に触れるためには「道」を考えることを避けては通れないようです。

熊野古道を歩く前にリサーチをしていたとき、後白河上皇撰による歌謡集「梁塵秘抄」の中のある一節が気になりました。

「徒歩(かち)より参れば道遠し すぐれて山きびし馬にて参れば苦行ならず」

意味は「熊野古道は歩いていけば道中遠いし、山は険しい。でも馬に乗ったら修行にならないしなあ」という感じです。つまり、現地に行くことよりも、歩くこと自体に重きを置いていた。歩くことそれ自体が修行で、時間と体力と気力を使うことこそが神仏の加護につながる。プロセスこそが重要だという流れがあったのでしょう。

この辺りは平家納経にも通じます。平安時代の写経は華美にすればするほど功徳が得られるとされていましたから。時間やお金をかけることで加護を授かると考えられていた。

私たちの日々のお稽古もまさにそうではないでしょうか。プロセスでしかない。毎月の課題での作品提出もありますが、完成品というとニュアンスが少し違ってくると思います。「道」がつく領域はすべて追求し続けるものであって、プロセスこそが重要なのだと思います。

仕事で来れない時期もありました。歩みが遅くなった時期もありましたが、ゆっくりでもなんとかここまで歩を進めてきました。その積み重ねが、今の自分の中にあります。

AIの時代における「墨と筆」の価値

2026年、私たちの世界は文字を書くどころか、考えることさえAIに任せる時代になりました。そんな「効率化の極致」にいる私たちだからこそ、書道という文化が持つ価値が、かつてないほどに高まっているのかもしれません。

デジタルの世界では、書き間違えてもすぐに修正できます。字体が気に入らなければフォントを変えればいい。でも書道では一度紙に落とした墨は、もう二度と消すことはできません。スマホやPCをベースに考えれば、とっても「不便」なことです。しかし一方でその不便さこそが究極の贅沢と考えることもできます。

特に良い紙を使っているときのヒリつくような集中力は、やり直しができるデジタルな日常では絶対に味わえません。失敗を受け入れ、その時の自分をそのまま紙に残す。SNSやフェイクニュースに流され惑わされがちな現代社会において、自分がそこにいることを確認させてくれる時間なのかもしれません。

「書」において最も人間らしいのは、実はその「揺らぎ」だと思っています。デジタルの世界では完璧なバランスの文字が吐き出されます。一方、私たちが書く文字には、その人個人の味だけでなく、その日の体調、気分の高揚、あるいは迷いまでもが現れます。文字は単なる「情報」ではありません。書き手の呼吸や鼓動が宿っているならば、それはもう世界に一つだけの「表現」です。

効率化の名の下に個性が削ぎ落とされがちな今だからこそ、自分の身体を通して生み出される「不完全で美しい文字」には、圧倒的な価値が宿るのではないでしょうか。

緊張とリラックスの両立──書道という矛盾した営み

書道が教えてくれる大切なことのひとつは「余白の美」だと書きました。現代人は忙しくなりがちです。真っ黒な墨の線と同じくらい、その周りにある「書かれていない白い部分」が重要であるように、予定を詰め込みすぎない「余白」があるからこそ自分らしく輝けるのだと思います。

もし日々のスピード感に少し疲れを感じたなら、そんなときこそ筆を手に取ってみるのもよいかもしれません。忙しい合間を縫って、あえて「何もしない時間」を墨の香りと共にリラックスして過ごす。今の自分の呼吸を紙に置いてくる。そんな感覚で一文字、書いてみる。

ここで気づくのですが、書道というのは矛盾をはらんだ営みです。始まりは「失敗できない」というヒリつくような緊張感。そして終わりはリラックス。この両方が同じ時間の中に共存している。しかもそれが不思議と成立している。これが書の面白さかもしれません。

おわりに──先生、12年間ありがとうございました

書道を12年続けて気づいたことを一言でまとめるとすれば、「書は自分と向き合う装置である」ということです。

技術を磨くこと、文字の意味を理解すること、余白を意識すること、揺らぎを受け入れること。これらはすべて、自分自身をより深く知るためのプロセスでした。

先生のお稽古がなければ、これだけの時間を書と向き合い続けることはできなかったと思います。毎年の会報に書いてきたメモは、先生がいたからこそ書けたものでもあります。感謝しても足りません。

AIが思考を代替し、フォントが文字を均一化し、効率化がすべてを飲み込もうとしている今の時代に、墨を磨り、筆を持ち、一文字と向き合う時間を選ぶことは、実はとても能動的な行為だと思っています。

書道は完成しない。だからこそ続けられる。先生との12年が終わっても、細くても長く書と付き合っていければ良いなと思っています。ゆっくりでも、歩みを止めずに進んでいきたいと思います。

▶ 先生に勧めてもらった一冊

12年間のお稽古の中で、先生から勧めてもらった本が何冊かあります。その中の1冊を紹介したいのですが、日常書きに役にたつ一色白泉著「美しい実用書―ふでがき書例集」です。

書道というと古典の臨書や競書のイメージが強いですが、この本は年賀状や手紙、のし書きなど日常で使う「実用的な書」に特化した一冊です。毛筆で美しく書くための手本が豊富に収録されており、お稽古で学んだことを日常の場面にどう活かすかを具体的に示してくれます。

書道を習っていても「いざ実生活で筆を使う場面になるとどう書けばいいかわからない」という方に特におすすめです。先生に勧めてもらってから、手元に置いて折に触れて開いてきた本です。

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この記事を読んだ方へ

書道と「道」の話を読んでくれた方に、合わせて読んでほしい記事があります。


▶ 書道で考えてきた「道」を、実際に歩いた話

40歳の誕生日に熊野古道を歩き始め、大阪から熊野三山まで15日間・280kmを歩いた記録です。歩きながら「なぜ歩くのか」を問い続けた旅でもあります。書道でいう「プロセスこそが修行」という感覚が、実際に体を動かすことでどう変わったか。歩いてみないとわからないことが、確かにありました。 → 熊野古道15日間・280kmの全記録を読む


▶ 理系だった自分が、なぜ芸大に入ったのか

書道を続けながら、30代で通信制の芸大に入学しました。高専・理系大を卒業して社会人になってから「美しいとは何か」を体系的に学びたいと思ったこと、6年かけて卒業したこと、学芸員資格を取ったこと。書道で感じてきた「余白の美」や「描くと書くの違い」は、芸大での学びと深くつながっていました。 → 社会人芸大生になった話を読む


▶ 書いている人間が気になった方へ

高専→理系大→転職多数→芸大卒(学芸員資格)→スペイン巡礼800km→熊野古道280km→書道12年。どういう人間が書いているか気になった方はこちらへ。 → 初めての方へ

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