なにが良かったのかなんて、にんげん終わってみないとわからないものよ


先日大学の先輩である牧野友子さんの個展に行って来ました。父親の遺品をベースに作品作りがなされていて、独特な世界観を見せてくれる展示。遺品って聞くと暗いイメージするのに、帰りには明るくなって帰れるっていう不思議な要素があります。※見に行ってもらいたいので今日は写真なしです

なにが良かったのかなんて、にんげん終わってみないとわからないものよ

しかしこの「なにが良かったのかなんて、にんげん終わってみないとわからないものよ」ってタイトルがしびれますわね。文章や表現など、いろいろ考えることがありますけど、作家のお母さんのセリフそのものということです。(お母さんは特に父親の死を偲んで言った言葉ではないということですが、このタイトルによって鑑賞者である私たちに、わからないなりにも家族間のやり取りを連想できる要素を感じます)これを持ってくるあたりセンスありますわ。

まず最初に、感じたこと、制作側の目線で見ればやられたなって感じです。実際写真をする人は死生観とかを扱うことが多いです、でもプライベートすぎて、あと、それっぽすぎて入り込めないことも多いのですけど、牧野さんの作品はちょっと斜めから見てる感じがして、「あ、この角度から見ればいいのか」って他人でも覗き込む余地があるというか、肩肘張らず見れる感じがとても良いなあと感じました。

遺品を使ってるということだけ聞けば、うやうやしい感じもしそうだけど、弔うというよりもむしろ遊んでるって感じがする。言葉を選ばずにいうと、死んでも大したことないやん、むしろ死ぬ前よりもコミュニケーションしやすいわ。みたいな感じ。(不謹慎で失礼です、感想で作家の意図ではないです)

作品は世に出た瞬間から作家の手を離れるものだということを学んでから、説明の必要なものは、まだ作り込む余地があると思うけど、彼女の作品は展示物だけで十分だと思う。作家の生前の関係性は鑑賞者にはわからないけど、広く常識的に考えれば遺品で遊ぶのはご法度な訳で、でももし自分が死んだら、残ったものを大事にしまわれちゃうより手に取ってもらったり何かに使ってもらたりしてもらいたい。(多分それは、それは多くの人が賛同することだと思うんだけど。)

作品作りにあたってはいろんな主題があるけど、死だけは自分たちに平等に訪れるもの。世界には弔いの形はたくさんありますけども、死をこんなにポップに着飾ってもらえるのってのはとても幸せなことではないでしょうかね。

でも、もちろんこんな感覚を持って看取ってくれる人ばかりではないでしょうから、それを望むならば死に方や生前の生き方、接し方が大切になるのは言うまでもありません。今回の展示を見れば、大切な人が亡くなった時の弔い方はもちろん、自分自身がどんな死を迎えたいのかって考える機会になるのではないかなと思います。

生きてるうちは延長線だけど、死を考えれば、わからないなりにも我が身を振り返る機会になるんですから。

牧野友子展 

なにが良かったのかなんて、にんげん終わってみないとわからないものよ

2019/10/15~11/16
IG Photo Gallery
104-0061 東京都中央区銀座三丁目13番17号 辰中ビル3階
石田法律事務所内

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