これまでサイレント映画を見た記憶がなかった。テレビ放映を見たこともなく、自分でDVDをレンタルしたこともなかった。やはり「昔の映画」という印象であり、「時代遅れ」の娯楽という先入観があったからだと思う。
今回、通っている大学の映像の授業でハロルド・ロイドの「ロイドの要心無用」という映画を見る機会に恵まれた。この映画を見てサイレント映画に対する印象は180度変わることになった。一瞬一瞬が見せ場であり、例えストーリーを知っていてもスクリーンから目が離せない、私はロイドの洗練された演技に目を奪われた。ということで、その備忘録を少しだけ残しておこうと思う。
サイレント映画の構成について
現在見る映画とは全く異なる面白さがあった。その面白さの違いは作り方の違いだと考える。現在の映画(トーキー映画)は、演技とセリフの合計で100を目指す映像だとするならば、サイレント映画は演技だけで100を目指す。
セリフがないからといってその分面白みや評価が下がることはないし、だからといってサイレントの演技がトーキーよりも優れているということでもない(サイレントでの演技をトーキーに適用すれば、胸焼けをおこしてしまうかもしれないし)。
少しオーバーな演技はサイレントでこそで生きてくるだろうし、セリフがスタンダードなトーキーならではの演じ方もあるだろう。それぞれの特性に合わせて、100点を目指すというだけ。そういう意味で、同じ映画だが全く別物という捉え方が正しいように感じる。比べることがそもそも間違ってる。
サイレント映画における俳優と鑑賞者の関係性
映画にとってセリフは直接的なメッセージとして鑑賞者に伝わる。ただ重要な情報伝達手段である一方で、言葉の割合が増すほどに説明的となり、意味が限定されてしまう恐れもある。逆に、セリフという言語情報のない表現手法を使えば、その主体は受け手側に移る。つまり行為の意味の最終決定者は鑑賞者に委ねられることになる。
そういう意味では、サイレント映画は鑑賞者それぞれが異なる印象や感想を持つ可能性があり、同じ作品でも異なる楽しみ方を提供できるポテンシャルを持つと思う。だからこそ俳優は演技に熱が入っただろうし、鑑賞者側も彼らの表現を汲み取る目を養ったことだと思う。こうした切磋琢磨の中で映画の表現技法は磨かれてきたのではないかと推察する。
新しい映画の見方を学んだ気がする。これからはちょこちょこ昔の作品も見ていこうと思う。