ドキュメンタリーを考える映画作品「極北のナヌーク」と「音のないで世界で」


昨日に引き続き映画ネタを。今日は最近紹介していただいてみたドキュメンタリー映画について。

「ドキュメンタリーはドキュメンタリー足り得るのか?」というドキュメンタリーのヤラセや偏向的な表現はいつだって問題視されている。実際私達にカメラを向けられながら送る日常なんてものはほとんどないし、そもそもカメラを向けるという行為自体が主観、もしくは客観を装おった主観といえるだろう。なるほど厳密な意味でのドキュメンタリーなど存在しないのかもしれない。

ドキュメンタリーは誰のものか

ただし私は、それらも含めてドキュメンタリーなのではと思う。つまり「被写体を追いかけた」作品ではなく、「被写体を追いかけた制作陣」の作品という俯瞰する立場で見てドキュメンタリー作品であると思うのだ。

私が思うにドキュメンタリーを成立させるのは、監督ではなく鑑賞者である。例えば戦争などは対立する集団同士はそのどちらにもそれぞれの正義が存在する。右から見るか、左から見るかで全く見え方は変わってくる。もちろん言うまでもなく片側だけの目線で作られた作品であっても、間違いなくドキュメンタリー作品である。ただ忘れてはならないのが、その追いかける対象が全体像を表していると思い込んではいけない。あくまでも監督目線の作品であり、1つの見方に過ぎないという意識を持って観ることがも求められるのではないだろうか

日常という定義

世界初のドキュメンタリー映画であるロバート・フラハティの「極北のナヌーク」は、エスキモーの実態をナヌークという狩りの名人にスポットを当てて表現した大ヒット作品で、監督自身長い期間を共に過ごして制作している。

私が、最も印象に残ってるのはナヌークの人懐こい笑顔である。多くのカットでカメラ目線の彼が撮影されている。クローズアップする映像は、無邪気にアザラシの肉にかぶりつくナヌークにナイフを舐めるナヌーク、その中に世界観がわかるようにロングショットを織り交ぜ、ソリで滑走するナヌークが映っている。カメラワークは秀逸で飽きさせないが、ふと立ち止まってみると、いずれも注文しないとできないカットばかりだ。

これらのシーンは明らかにカメラを意識しており、ナヌークの日常とはいい難い。平たく言えば作品仕様で演技している。ただ逆を考えてみれば、「いやこれがドキュメンタリーでは?」とも思う。

カメラを向けられながら一切気にせず日常を送るという行動こそ演技と言わざるを得ない。むしろ向けられたカメラに微笑みかけることが、カメラが密着する日常であり、撮影陣とのリアル(友情なのか金銭的なものかは不明だが)な関係性を表していると考える。そういう視点で見ればとても健全なドキュメンタリーだと思う。

ドキュメンタリー作品のカバー範囲

この作品は彼が撮ったナヌークの姿なのであり、また別の誰かが撮れば別のナヌークの姿が映し出されることだろう。そして何より、この作品は、ナヌークを通したエスキモーの姿であってエスキモーの全体性を表した作品ではないということも理解して鑑賞することで見えてくるものがある。

ドキュメンタリーは「答え」ではなく「問い」という位置づけで客観的目線を持ってみれば、1つの作品から得られる情報は2倍にも3倍にもなるのではないか、改めてドキュメンタリーの見方を考える良い機会になった。

もうひとつのサイレント

先程取り上げた「極北のナヌーク」と昨日取り上げた「ロイドの要心無用」の2つの作品を踏まえて、聴覚障害者たちのある日常を切り撮ったドキュメンタリー作品「音のないで世界で」を取り上げる。聴覚障害の人は話すことができない人がいるが、そういう意味ではこの作品はサイレントのドキュメンタリーではないかとすすめられた。

作中である聴覚障害者が「手話でなら全世界の人々と2日でコミュニケーションがとれる」と言い切った彼の日常を見たときに私の頭に思い浮かんだのはチャップリンだった。言葉などなくても、言いたいことは伝わるのだ。

私達は自分の気持ちを伝達する際、言葉に依存してしまっている。そして、わかってもらえるはずという期待(甘え)が様々な摩擦を生む原因となっている。重要なのは、わかっていることは限定的、その上で寄り添う姿勢を持つことなのではないか。

テーマと手法の関係性

この作品は場面毎の説明が必要最低限に抑えられ制作されている。つまり意味や解釈を受け手に委ねるという姿勢である。言語情報をカットすることで理解の難易度や速さと引き換えに、解釈の広さと深みを得ることができる構成となっている。このようなスタイルで、本テーマである聴覚障害の人々の実態を撮影したことに作品づくりのセンスと品の良さを感じた。

この作品を通してドキュメンタリーという「現実」を切り撮る作品においては、ストーリー以上に作風がそのテーマを表現しきれるものであるかを問う必要があるということを学んだ。

最後に鑑賞者のレベルが上がれば、否応なく作品はそのレベルや期待に合わせなければならなくなる。そういう意味で作品の進化の鍵は鑑賞者が握っているとも言える。逆もある、鑑賞者のレベルが落ちれば、作品の質も比例して落ちることになるだろう。よい作品に出会うためには、鑑賞する側もレベルアップしていかねばならない。そのような気づきをこの3作品から学んだ。

やっぱり映画っていいですね。


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