ピダハン〜「言語本能」を超える文化と世界観〜

ピダハン〜「言語本能」を超える文化と世界観〜というとても面白い民族の書籍を読んでいます。ダニエルさんというキリスト教の伝道師が、キリスト教を布教するべく彼らの地に渡り、彼らの文化や言語を習得していくうえでの、エスノグラフィーで得た知見を彼の目線で書かれているものです。

まずピダハン族は、アマゾン川の支流のひとつのマイシ川沿いに住んでいます。これまでほとんどの外からの影響を拒んで暮している数少ない民族で、大きな特徴の一つに私たちが普通に話している「過去」や「未来」、「数」や「色」という概念がありません。

あまりにも僕たちの生んでいる世界とは違いすぎて、というか前提が違いすぎて言葉わかっても話が通じないことがたくさんありそうです。

でも、彼らの文化や考え方を知ることで、僕たちが所属するこの当たり前の文化が、ほんの一つの考え方でしかないこと、当然と思っている前提が覆れば、いろいろと成り立たなくなることが出てくること等、自分自身を振り返ることができるよい書籍だと思いましたので、ここでの発見や気づきを少しだけ紹介しておきます。

▪️努力すれば互いを理解でいるという誤解

これはピダハンと暮らすダニエルさんが感じた事の一つですが、努力しても前提が違えば相手が見ているように世界を見ることは難しいです。(ピダハンは妖精が見えたりする、夢で体験したことが現実で体験したことになるなどなど)前提が違えば、歩み寄ったところで理解は不可能、僕たちもまずはこの前提部分のコンセンサスが取れた上でコミュにケーションをとっているか気にしておく必要がありそうですね。

▪️言葉ではなく、態度で示す

彼らの世界の言葉は「質問、宣言、命令」しかないとのこと。なら、ありがとうという気持ちをどう表現するのか?とてもシンプルであとから返礼の品をわたしたり、荷物運びを手伝ったり、つまり行動で表すそうです。(謝りもなくこれもやはり言葉ではなく、行動で表すとのこと。)
言葉ではなく、その気持ちが本物であれば、行動で表す、だから言葉は必要なしということのよう。場当たり的な表現はしないということのようです、それに引き換え我々日本人はすぐに謝るとか言われたりしますが、私たちは言葉を安売りしすぎてはいないだろうか?もう一度自分たちを振り返ってみてもいいかもしれないです。

▪️所有しない所有する必要がない

ピダハンの建てる小屋はとても簡単で、我々でいう家という概念はないようでs、嵐が来ればすぐに吹き飛ばされてしまうような造りのようで、もちろんかぞくひとりひとりの部屋もない。彼らにはプライバシーというものはあまりないみたいで、また彼らは所有の文化も希薄で、財産は個人や家族のものではなく、みんなのものというものらしい。ゆえに隠す必要も無い。(実はいとこという概念もないみたいで、いとこ同士の結婚なんかもよくあることのよう、なので自然と血のつながりが濃くなり、コミュニティの絆が深い、他人という意識が低いというのも理由かもしれない)

また、加工品にしても長く使えて丈夫なものを作るというものではなく、あえてそうしないという観察結果もある。(例えばものを運ぶような籠をつくるにしても、丈夫な素材などではなく、葉っぱを編んで使う等)これは、人の動きの方をものに合わせているからではないかというもの。僕たちは、地球上で自分たちの優先順位を一番にもってきがちですが、彼らのように自然の方に合わせることが自然と共存するという本当の意味なんでしょう。

▪️個が立ちながらも個を生かす連帯感

結婚も契約書はない、みなが認めればそうなる、同棲すればそうで、離婚も離れてすめば離婚。じゃどうやって悪者をさばくかというと、村八分という考え方に近い連帯感、意識がある。アマゾンでは協力なくして生き残ることができないため、仲間はずれが死につながる。システムがなくてもすごい強制力だと思う。

また、ピダハンの社会は子供も1個の人間であり、特別扱いされず、大人と同等に尊重されている、
例えば、小さい子供がナイフで遊んでいても放っておく。怪我をしたら自分のせいだとか。そもそもアマゾンという環境で生きていて、強くないと生きていけない環境、守ってもらいながらに生きていくということは部族ではゆるされない。

だからこそ小さい頃から自分にできることを見つけて、仲間に貢献する。生きていることはまさに自分の才覚なのである。人はまず強くあらねばならない。
なので、大人にだけ許される特権というものもないし、子供だけ特別扱いされることもない、人の困難を分け合うのであれば、楽しみも分け合うのがピダハン流。酒でもタバコでもやりたいときにやればいい、自己責任において。まあ全面的に受け入れるというのは刺激が強いですが、僕たちの世界は、自分たちから見ても過保護すぎるので、彼らの爪の垢でも煎じて飲ますくらいでちょうどよいかもしれませんね。

▪️さいごに

こんな生活をしているので、ピダハンの若者が引きこもることはないようです(引きこもる前に死んでいるかもしれないです)。自分探しの旅みたいに、答えを探すようなこともないのだそう、なぜなら答えはもうあるから。そこに新たな疑問を投げかけられることもありません。

彼らには未来を表す言語がないそうです、つまり未来という概念がない。なので、ピダハン族は見えない未来に気を病むことはなく、今この一瞬を楽しむことに全力です。だから今よりよくなることを成功と価値づける我々の世界観とは根本から違うのですね。乱暴な言い方をすれば、今日がよければいいのです。明日は明日の風が吹く。あまりに先のことを気に病むのではなく、ある種割り切って生きていくことでうまくいくことで、僕たちの生活もうまく回ることもある気がします。

文化の進化を是とする私たちの世界の価値観では、常に変化を求められ、適応していく姿勢をが求められるますがどれほどの人が満足して生きているでしょうか?一方ピダハンの多くは現状の生活に満足しているます、今は差し迫った危機もないですし、当然変化を望む必要もありません。

生まれ育った文化が違うとこんなにも世界のとらえ方、生き方が違ってくるもんなんですね。そんな今を受け入れながら、自分にあった生き方を模索していきたいものですね。

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