ラーメンを食べる時の無防備な左手に宿るエロティシズムについて

先日ふとした仕草にその人は表れるという記事を書いてみたのですが、この流れで、もう一つ個人的に気になるのが、ラーメンを食べる時の女性の利き手と逆の手(面倒なので、左手ということにします)。つまりラーメンを食べる時の無防備な左手に宿るエロティシズムです。

これ、分かる人にはたまらないんじゃないでしょうか。(いるかな?)これがラーメンであらねばならない理由というのが存在しますので、まずはその理由について触れておきましょう。

まず比較するためにラーメン以外の料理から見ていくことにしてみます。そうですね、なんでもいいんだけど、そうね、肉じゃがにしましょう。肉じゃがのじゃがいもを箸で掴んだとしましょう。おもむろにじゃがいもを一口サイズに箸で割りましたら、いもを口に運びます、その際の左手はこぼさないように手を添えられてしまっています、重要な役割を与えられていることがわかりますね。これが肉じゃがの場合の無防備ではない左手です。

では次に味噌汁を見ていきましょう。これは言わずもがなで、お椀を掴んで口元まで運びます、左手大活躍です。箸を持つ右手と同じくらいに重要な役割を全うしておりますね、味噌汁の場合の戦闘中の左手です。


こんな感じですからね

さて、ようやくここでラーメンです。私たちはラーメン屋でラーメンをすすったことがあります。思い出してみます。なかなかラーメンのどんぶりを掴んで味噌汁のごとく食う女性はいませんね、男でもいません(悟空とルフィくらいじゃないですかね)。

どんぶりは熱いですしスープは満タンです。フチには汁や油が飛んでることも多いですから添えることも極力しません。ラーメンはテーブルの上に置かれたまま、近づけるくらいであとは触りません。当然麺は長いですし汁は垂れますから、すべてをすくい上げてこぼれないようにとかで左手を添えることもしません。


これは味噌汁のようには持てない

ラーメンを上手く食べようとすると、どんぶりを動かさずできるだけ吸いやすいように、食べやすいように顔を持っていくことでしょう。この食べ方は他の料理ではタブーとされており、あまり見られない食べ方になるわけです。そうすると使うのは箸を持つ右手と顔面そのものです。

掴めない、添えれない左手にやることはありません。強いてあげるならば顔を近づけられるように耳に髪の毛をかけることくらいは任せてもらえます。が、そのためだけ、その後の左手は、ただただ邪魔にならないように存在感を消すことを求められることになります。


麺をすくいあげ顔を近づけます

でも足の上だと行儀が悪いということになってしまいますので、なんとなくテーブルの上に無防備に晒されることになるわけです。その際、意識は左手にあるようでありません。この左手です。

意識して、グーにしたりパーにしたりはしません。もちろん食べているのにチョキなんてありえませんから、なんとなく半握りくらいの柔らかな手に落ち着きます。イメージは赤ちゃんの握っている拳のようなイメージです。菩薩がかざしているあの手です。これなんですね。


握ってるとも握っていないとも言えないこの絶妙な型

実はかの格闘漫画のグラップラー刃牙にも同じような技がありまして、空手家の愚地独歩というおっさんが編み出した「菩薩の拳」です。赤ちゃん握りで放つ正拳突きですが、赤ちゃんの手なので殺気がないという理由で殺気に反応するプロ格闘家がついてこれないというスゴイやつです。

何かを行うためではなく、何の邪魔にもならないようにということを求められる事はあまりないではないでしょうか?役割をすべて没収されてしまったその左手の表情は迷子の子犬のように寂しそうであり、でも何かを誘うようにミステリアスでもあるのです。この意識と無意識の間にある完全防備された無防備さの中にエロティシズムは生まれてくるのですね。


生まれたエロティシズム

※追記
ただ唯一の弱点がレンゲ。。。こいつを使ってミニラーメン的に食べようとする行いだけが左手に役割を与えてしまう事になります。なんと口惜しいことでしょう。この世の中からレンゲを殲滅することは比較的自分の中で重要度が高いミッションです。

※追記2
ちなみにうどんはどうなのよという声が聞こえてきそうですが、うどんは惜しいのです。ま、うどんもいいんですけど、何というかラーメンのカロリーという背徳感を感じながら麺を啜るということも関係してきそうです。背徳感の後ろに隠れてしまった左手は更にその小さな存在感を増していくのです。

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