気づけば6月も今日で終わり。いろいろあってブログの更新が止まっていた。
一つ前に書いたのが、大阪で開催された国立国際美術館のボルタンスキーの「Life time」だったけど、今日もボルタンスキー。現在表参道のエスパス ルイ・ヴィトン東京で開催されているボルタンスキーの「アニミタスⅡ」について。
展示されている作品は2つあり、『アニミタス(ささやきの森)』は日本の豊島で、『アニミタス(死せる母たち)』はイスラエルの死海のほとりで制作されている。それぞれ日の出から日没までをワンカットで撮影しているもので、スクリーンの下には藁や花が敷き詰められており、その香りととともに没頭することができる制作となっている。ちなみにアニミタスはスペイン語で「小さな魂」を意味するようで、「死者を祀る路傍の小さな祭壇へのオマージュとして、人里離れた広野に設置したインスタレーションが原点」ということだ。
ボルタンスキーは、 歴史や記憶、死といったものを題材にしており、テーマこそよく聞くものだがその解釈の仕方や作品に仕上げる感覚に独自性が感じられる。本作も、ボルタンスキー個人の歴史とそれぞれの土地の物語をひとつにする試みということで、普通ならアトリエでその土地にまつわる何かを仕上げそうなものだが、彼はその土地に赴き、そこで作品を作り、映像を撮る。そうして、その場所を異なる場所に移植する。作品自体は誰に知られることもなく消えていく。彼にとって作品という物質そのものは重要ではないらしい。そして日が昇り沈むまでをノーカットで撮影する。彼は作品をきっかけとして、その土地における時間の経過を形に残す。
今回は東京の都心、表参道のヴィトンのビルにその再現がなされている。俯瞰してみれば森の風景の奥には都会のビル群が目に入る。以前行った彼の展示は美術館という箱の中だったので、作品にのみ集中できたが、今回のように全面ガラス張りのビルの中では受ける印象がまるで違う。
作品は森の中で、風に揺られる無数の風鈴の映像なのだけど、少し座って映像を見ているとここが東京であることを忘れてしまう、、、とまではいかないけども(忘れてしまえばいいのだけど)東京ってなんだろうか?という思いが不意に頭をよぎる。
先ほども述べたように、本作はボルタンスキー個人の歴史とそれぞれの土地の物語をひとつにする試みということで、ボルタスキーもその土地も自分にとっては何のゆかりもないわけで、感情移入できるとしたら、その風景を自分の何かに置き換えることしかない。まあアート全般がそうなのだとは思うけども、時代も同じ、場所も日本が舞台とされれば、なんか近すぎて逆に距離を感じるところもある。
そこで、作品から少し目線をずらし外に広がる東京の空を見る、ビルに区切られた空の境界線にピントがあう。ここは東京であるということを理解する。この東京でボルタンスキーが撮影した豊島の風景を彼の作品を媒介にして見ていると認識する。
東京は移民の土地だ。今も人口は増え続けている。東京は東京以外の人で型どられているといってもいいと思う。でも、みんな東京らしさを重視しているように見えるし、それを強いられているように思う。でも僕も東京に住んでいる和歌山県民であったりもする。今も関西弁は抜けない。
今回ボルタンスキーの手で、豊島(一風景だが)は東京のど真ん中に移植された。違和感は残るものの、きちんと両立しているように思った。いい環境の展示だと思った。私たちは私たちの中のコアとなる部分を東京に披露できているだろうか。東京の枠に押し込めるのではなく、それぞれの色を東京で表現できたなら、東京はもっと強くなりそうだ。そんな展示とはまったく的外れた感想をもった。それほどに面白いコントラストだったということにしておこう。
『CHRISTIAN BOLTANSKI – ANIMITAS II』
東京都渋谷区神宮前5-7-5 ルイ・ヴィトン表参道ビル7F。2019年6月13日〜11月7日まで開催中 入場無料です。