ボルタンスキーLifetimeが元号の架け橋にぴったりな印象

 

 

 

令和一発目の美術館めぐりは、クリスチャン・ボルタンスキー「Life time」からはじめることにした。天皇即位に合わせて美術館も無料でした、ほんとありがとうございます。作品によっては写真も撮れたのでこちらもありがとうござります。このタイミングで開催されてることにびっくりなぴったり感だった。

さて、ボルタンスキーのLife timeでは人の記憶や命、存在をテーマに作品作りがなされており、国立国際美術館という美術館の特性を生かした非常によい展示だった。死ねば土の中に埋葬される風習にある私達においては、地下という空間は死後の世界を想起させる。また地下の展示は自然光が入りづらく、人工の光が頼りになる。これがこの作品のテーマにものすごくマッチしていたと思う。国立国際美術館で行う意味がこのあたりにもあるのだと思う。光を求める私達が地下に潜る意味は、この世界の領域を超えることにもつながってる。

かっこいいボルタンスキー展示のポスター

 

さて精神世界を想起させるようなボルタンスキーの展示ではあるのだけど、僕が見た感想としてはスピリチュアル的なものと言うよりは人工的というキーワードが当てはまるような気がした。もちろん作家がイメージを具現化してくれているので私達観賞者は見ることができるのだから人工物には決まっているのだけども、単にそれだけではない違和感を感じた。(そしてこれらが矛盾している訳でもない)

ボルタンスキーの作品はいちいち考えたくなる

 

それは他の作家ならば隠してしまいそうな配線などもあえてそのままにしていたり、むしろ展示物を邪魔するように垂らしているのをみれば明らかだ。メインの展示物そのものと同等に、場合によってはそれ以上に作るプロセスやその結果出来上がったものの一種の不出来さ、不格好さが印象に残る。(これは写真NGだった)

配線見える作品NGだったので近くにある作品で

 

モニュメント(これも写真NG)にしてもその世界観たるや見事なもので美術館だということを忘れてしまいそうになる、なにか異世界に迷い込んだような雰囲気だった。こうした世界観の中でその世界を構成する宗教的な何かに飲み込まれそうになるのだけど、どうにか踏みとどまれるのはそれが作ったものだと「わかる」からだ。神が「創った」完全さは絶対だろうけど、人が「造った」不完全さには必ずどこか抜け道がある。また「感じる」のではなく、一見して「わかる」というのがポイントだと思う。

スーツだけどこれの人版の作品がすごい様相だった。これはこれですごいのだけど。

 

ただ明らかに作り物として認識できるものであっても、このように没入してしまいそうな危うい雰囲気が漂うことを踏まえれば、そもそも私達は「世界」に入り込みやすい性質を持っているのだろうし、そのように期待しているところがあるのだと思う。生きる意味を求めようとするのもそんなところがあるのかもしれない。一般的な常識の通りボルタンスキーの作品もまた死者は語らないというスタンスで作品作りがなされている。ただ、私達生者は死者と日々コンタクトをとろうとしている。日々仏壇に手を合わせるお供え物は欠かさない、お盆には国中が死者と過ごしたりする。死者からのコンタクトはわからないけど、私達視点ではコンタクトを無視できないことは誰もが認めるところだと思う。

私達もどこかには辿り着くのでしょう、そういうもの。ういうものだけどどこにくのでしょうね。おしえてボルタンスキー!

 

Life timeの意味は一生と訳すのが自然だと思うのだけども、平成から令和へ、時代の移り変わりにまたがってこの展示が開催されていたのはいったいはどんな啓示があったのだろうとか思ってしまう。1つの時代が終わりと新しい時代が始まるこの時期に開催されたLife time。命は終わりではなく、それがまた始まりでもあるという輪廻のイメージを増幅させることを意識付けるにはこれ以上ない展示だった。

色即是空空即是色な感じの作品。万物はそれぞれ無意識的につながってる、たぶん。ということはボルタンスキーと僕ちんもつながってると言える、かな。

 

祭壇風な展示を見る限りキリスト教によった作品なのだけど、この日本という土地、そしてこの時期での開催を得て仏教的なエネルギーも少なからず感じた珍しい展示だった。日本に愛された作家かもしれない。

また。今世か来世か、それかいつでも、また逢いましょう。この展示はなんか晴れやかでした。

このあと六本木でも行うだろうけど、ぜひまた次の元号へと移り変わるタイミングで日本にきてほしいなと思う。

 

 

 

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