他人の目で見たものをその人の口から話してもらうこと、それを美味しくいただくこと

先日、国立新美術館で開催されているボルタンスキーの展示Life Timeを見てきた。内容については先に開催されていた大阪の国立国際美術館で開催されていたものを見ていたので、ある程度は把握していたのだけども、美術館が変わることでどのように展示が変更されるのかが気になって鑑賞した。

そして今回は、一人ではなく友人と鑑賞。特に今の芸術大学のメンバーでもなく会社の友人たちと。日頃はアートの文脈を知っている人たちと行くことが多いけども、全くその関係ではない人たちと行くということは初めてのことで、とても新鮮な気分で鑑賞できた。

ボルタンスキーの展示Life Time1
ボルタンスキーの展示Life Time2

ボルタンスキーの展示なんて、正直わからないことばっかりで、自分だって2回目だけどもやっぱり自分なりの解釈を試みることにも結構大変な部類。はっきり言ってわかったつもりになるのが関の山。だけども、一緒にいったメンバーはそれぞれ自分の目線を持っていて、わからない!って言いいながら、頭に?な部分はもちろんあったろうけど楽しみを見出しているように見えた。

というのも自分が気にもしていなかった作品や仕掛けに対して「この作品がこんな理由で気になった!」「これってこういう意味!?」「なんであっちはこうなのに、これはこうなのかわからない」とか、確かにそうだよなあという観点での発言をところどころでブッ混んでくるので、アテンドしているはずのこちらの方が気づかされることが多い。

ボルタンスキーの展示Life Time3
ボルタンスキーの展示Life Time4

少しばかりアートの文脈に触れわかったつもりになっていた自分にとって、そもそもアートの世界には正解なんてないということを再確認したし、その世界に少しばかり長くいることなどクソの役にも立たないほどに無意味だということを思い知らされる。

人は自分が見えているものしか見えないわけで、見えていないものが見えたなら、それは成長かもしれないけども、錯覚や思い込みかもしれない。危険な兆候の可能性も十分にある。だけども他人の目で見たものをその人の口から話してもらえたら、それはその人にとって本物の気持ち。

その人が見ていた世界ということを踏まえて自分の中に取り入れようとするなら、不思議とその内容もスーッと入ってくる。そしてそのタイミングで、その人の人となりを感じること、これがその言葉を自分の中で再解釈を行う助けになる。

ボルタンスキーの展示Life Time5
ボルタンスキーの展示Life Time6

考えるきっかけを提供されるものが現代アートだとしたら、作品自体から感じることも、作品を見た人の意見から感じることもさほど大きな差はないんじゃないか。作家が言ったことも友人が言ったことも、自分の中の琴線に触れれば大きな差はないと思う。だってその気づきを得たことで、これからの自分がどう思考して、どう動いていくかだと思うから。


共通のものを食べ、自分の中を通って、なんらかの発言をみんなに共有する。自分にとってもとても良い経験だったし、参加したメンバーもそのように思ってくれているところがあったなら、こうした試みはこれからも続けていきたいなあと思う。

油断は慢心に、慢心は停滞に。知識や経験はもちろん大切だけど、その延長線上でしか考えられなくなったら予定調和な明日が待ってる。わからない世界を見つつ、そしてわかる世界を増やすことで、わからない世界を増やしたいものです。直径が広がるごとに増す円周のように。

国立新美術館 クリスチャン・ボルタンスキー Life Time

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