風景論の著者港千尋氏の講義「場所」と「非場所」について考える。


風景論の著者港千尋氏の講義を聴いた。

キーワードは「場所」と「非場所」。
フランスの人類学者のマルク・オジェが提唱した概念とのこと。

「場所」とは、人間の有機的な結びつきによってその場特有の経験が蓄積された集合体。そこにしかない、行かないと見れないといった里山だとか、歴史的な建造物だったり、そんな感じ。

一方で「非場所」は、コミュニティの集合的記憶が物質的に蓄積された「場所」と対比して、有する個性のなくなったもの、まあ言ってみれば近現代のありふれた風景。どこの街に行っても同じタワーマンション、ショッピングモールがあるような感じ。写真をひと目見て「うわどこにでもある!」と思うような風景がその代表。

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もちろん上記の「場所」が良い、「非場所」が悪いという話ではない。というかそもそもこの2つの概念は流動的であって、見る人によって異なるもの。僕が「非場所」だと思っているところでも、住んでいる人々の生活とかコミュニティの存在まで同じところなんてないわけで、そういう意味では住んでいる人にとっては「場所」になるはず。

ただ大局的には着実に現代人は、「場所」を「非場所」にしている。アジア全体で見ても新しい街は(大小あるけど)1週間に1つくらい出来てるスピード感だという。写真で切り取った街の姿を見れば、世界中にどこにでもありそうな街がどんどん誕生してる。

繰り返しになるけれど良い悪いの話ではなくて、ただ事実としてそうなっている。経済の流れ、大企業の資本が入る、雇用の問題もある。一番効率的な仕組みに乗っかる。全ては平均に近づくのであるから個性は失われていく。平均が悪いということでもない。良いとも思わないけどもそうなってく。ただ、もともとある「場所」を「非場所」化するということは多くの場合、環境破壊の枠組みに入る行為になると思う。

港氏の言葉に「人間は風景の知覚を反射しているだけなのではないか。」というような言葉があったので、天文学者のフレッド・ホイルを思い出した。彼はこんなことを言った。人間とかそういうものすべてひっくるめての生命の前にすでに知性があったと、その知性が命を創った。SF的な考え方だけどだいたいこんな感じだった。

まあ宇宙の気まぐれで地球を作っていただきましたよね、この世界。その地球の気まぐれで生き物が生まれて、ミジンコみたいなものの気まぐれで人間が生まれたわけですよね。つまり風景の大元である地球が人間を生み出したわけですけど、人間はその知性とのもととなった母なる地球をぶっ壊して生きているわけで、今行ってる人間的行為はその生みの親が求めたものなのか?なんて考える。

いや、きっと求めてはないんだろうけど、いや求めてるかもしれない、いやいやくしゃみ1回よりも短いこの人間史の影響なんてそもそも何も気にするレベルでないのかもだけども。ただすべてのものに意味があるという前提にたてば、風景は、地球は人間に何を求めているのか?何をさせたいのだろうか?と考えてしまう。風景の持つ知覚とは一体何なのであろうかと。

考えれば考えるほど、答えがない。そうなると考えるのは無意味か?とも思ったりもするけど、地球は教えてくれませんので、わからないなりにやってきた結果である目の前の景色にヒントを見出して、それらしく振る舞っていくしかないですね。その積み重ねが人類史ってな見方もできるかもしれない。


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