千住博特別講義「いま、なぜ芸術家を目指すのか」

先日、日本画家の千住博氏による「いま、なぜ芸術家を目指すのか」という講演を拝聴する機会に恵まれました。ご本人はとてもエネルギッシュで、一見すると芸術家というより舞台俳優・・・「あれ今日の講義、北大路欣也でしたっけか?」と思ったほどの雰囲気(顔面)です。

肝心の話はと言うと、実に本質をついた僕の中の琴線にガンガン触れる内容で、あっという間に千住ワールドに惹き込まれ1時間は光の速さで過ぎていきました。この光速に過ぎ去った1時間を経た後、僕は芸術という概念に対して、少々広がりを持って解釈しようとする意識ができたように思います。

ということで本エントリではお話していただいた内容に加えて、僕なりに咀嚼し解釈した内容をまとめてみました。僕自身、芸術領域に対してはまだまだ足を踏み入れたところなので、特に「芸術ってなんだ?」と首を傾げてしまう人にこそ読んでもらいたいと思います。

千住博について

まず千住博氏をご存じない方もいらっしゃるかと思うので、Wikipediaから簡単に抜粋してみました、このように解説されていらっしゃいます。


千住博/日本画の存在やその技法を世界に認知させ、真の国際性をもった芸術領域にすべく、絵画制作にとどまらず、講演や著述など幅広い活動を行っている。自然の側に身を置くという発想法を日本文化の根幹と捉え、自身の制作活動の指針としている。

そんなわけで千住博氏は世界的に活躍している日本画家でいらっしゃいます。歴史ある現代美術の国際美術展覧会のヴェネツィアビエンナーレなどにも出展しており、世界3大美術館のひとつであるニューヨークのメトロポリタン美術館でも戦後初の日本画家として常設展示されるような存在、簡単に言いますとものすごい人なんですよね。

京都・紫野の大徳寺で狩野永徳の「花鳥図」と並んで彼の作品が並んでいると言えばその凄さが否応なくわかりますよね。


大徳寺 千住博 滝(きょうとあすWEBページより)

そんな人が1時間まるっと「この時代における芸術家の役割とは!そして今なぜに目指すのかーーーっ(こんな調子)」について熱弁している(僕との距離1mくらい)のだから面白くないはずがありません。

というのも話の内容も去ることながら、話の構成の仕方、スライドの使い方、テンポ、発声、目線や手の使い方に至るまであらゆるプレゼンスキル、デリバリーテクニックを操っておられ、それはもう見事に一流でした。

世界に誇る「浮世絵」を生み出した日本人!

今回、千住博氏による講演では、芸術の起源を旧石器時代の洞窟壁画にまで遡り、西洋美術の誕生から進歩、そして現在の芸術の在り方についてまでという風に時系列で構成されていまして、美術史をダイジェストで解説してもらった感じです。

そんな中で、いわゆる芸術を代表する西洋美術に影響を与えた日本美術という存在の重要性にも触れられていました。葛飾北斎や歌川広重をはじめとする日本美術は世界的に見ても美術史の重要な任を担ってるんですね。僕も今回聞いて「そんなに北斎すごいんだ!」ってなりました。(タイムリーに今「北斎とジャポニスム」も国立西洋美術館で展示されてますね!ぜひ見ないと!!!)


葛飾北斎 冨嶽三十六景 駿州江尻(wikipediaより)

浮世絵以前の西洋美術は誰も見たこともない神々の世界やキリストを描いたり劇的な戦場シーンを切り取ったりと、まあ一言で言えば目に見えないスゴいものをスゴく描いていたわけで、それこそが絵画だったわけです。

そこに浮世絵です。浮世、つまり今いる現世の普通の日常を舞台に描いている。そんな絵画はこれまで無かったんですね。そんな浮世絵が日本から発信され、「やばい絵がある!普通の日常描いてる!え?いいの?まじでそんなの描いていいの?!うわ日常にもドラマあるやん!すっご!」となりまして、時の画家たちにものすごい影響を与えることになったんです。(そりゃ天使がパタパタしてる世界の話ですからね、浮世じゃなくもはやあの世ですもんね)


歌川広重 京都名所之内 淀川(wikipediaより)

で、そんな日常にドラマを見出す浮世絵に影響を受けたのが、今では誰もが知るドガ、ミレー、ゴッホ、セザンヌ・・・数えればまだまだ出てくる印象派の大御所の名前。(浮世絵信者やコレクターもたくさんいたようです。)彼らは浮世絵に触発され、日常の何気ない風景を印象的に描くにいたり「印象派」と称されるようになったということです。

そしてそんな世界、時代に対して影響を与えた芸術を生み出したのが日本であり、育った民族が私達なわけです。そんな私達が芸術家を目指すとなれば・・・小さなことは言ってられませんよね!考えさせられる歴史的な背景です。

芸術はサイエンス!?

芸術はサイエンスという側面を持っているようです。旧石器時代の洞窟壁画が芸術の始まりということで話を聞いていますが、この数万年前の時代の壁画の役割から芸術がサイエンスであるという読み取り方ができるわけです。このサイエンス部分を少し掘り下げていきます。


ショーヴェ洞窟の壁画(Wikipediaより)

この壁画は集団で共有するための「観察記録」であったと先行研究によって結論付けられているんですね。というのもその絵は洞窟内の小さな部屋や通りではなく、大空間(みんなが集まる部屋)にこそ描かれているということなんです。当然これはみなが集う場所を意識していることは明白ですね。

つまり絵は単なる個人の「遊び」ではなく、外の世界の観察記録の共有という解釈がなされるということなんですね。「外にはこんな動物がいるぞ、今日はあんな動物もいた、こんな大きさだったぞ。」と当時の人々の声が壁画から聞こえてきそうです。


ラスコー洞窟の壁画(Wikipediaより)

そして時代を経るにつれ、観察、共有を行うにも細部のディテールへの表現へのこだわり(種の多様性の認知と共有)を見せはじめ、ついには今この瞬間だけでなく、描かれた動物たちがどこから来てどこへ行くのか、これを表現するために壁面という2次元のフィールドに3次元の立体的な奥行ある絵を描くにまで至りました。まさに「時間と空間」という概念を意識しだしたということで、まさに科学!サイエンス!ということですね。

そんなすごい祖先のバトンを受けて、エジプト文明の壁画やギリシャ・ローマ文明における彫刻、そして西洋美術へと芸術は発展していくことになりました。そして見えるもの(今:エジプトの壁画からギリシャ・ローマ彫刻)から見えないもの(過去:キリスト生誕から最後の晩餐など)へ、そしてまた見えるもの(今:近代美術による挑戦)を通して、見えないもの(未来:現代美術)へと表現は進化しているんですね。

我々はどんな未来を見つめましょうか?そのための今をどんな風に切り取っていきましょうか。

いま、なぜ芸術家を目指すのか

そして今回のテーマ「いま、なぜ芸術家を目指すのか」に関してなんですが、これに関しては実は直接的な話は少なかったので、僕の解釈を含めて書いていこうと思います。

ちょっと先程の壁画に戻ります。世界最古の壁画ってことは当然ですが、誰かが絵を描くまでは絵と言うものも概念すらも存在しなかったわけで、誰かが描き「はじめた」ことで周知され模倣され「普通」に絵という概念が溶け込んでいったんですよね。(余談ですが、そういう意味で初代iphoneは芸術ですよね、すっかりスマホ文化。芸術は今でいうイノベーションとも言い換えることができるかもしれません。)


スゴイところでスゴイものを撮るのは、まあ普通。日常にこそドラマを見出したいものです

絵がなかった時代において描くという新たな表現手法を獲得したことで、それまで表現しきれなかった(伝えきれなかった)ものを伝えることができるようになったわけです。つまり芸術的表現は「自分以外の他者とわかり合うための新たなコミュニケーションであり、コミニュケーションを行う目的である環境適合のためのサイエンス的性質を持ち合わせたアプローチ」という感じでしょうか。

ちょっと回りくどいですね、簡単にすると「隠れた事柄をあぶり出し、作品を通してその概念を世に根付かせる運動」みたいな感じですかね。これはあくまで僕の解釈です。


ものごとを異化する目線を養いたい

そして更に突っ込むと「芸術が芸術で終わってしまうことは良くないことなのかもしれない」とさえ思うようになりました。最終的には、芸術から芸術性が取り除かれることをこそ求めなければならないのではないかということです。

これは壁画の話を聞いて特にそう思ったんですけども、ラスコーの壁画を書いた人もイケてる絵を残すことが目的ではなく、時間や空間という概念が集団の中に染み込むことを望んだのだと思うのです。

作品が形成するフォルムへの評価や意図の伝達レベルではなく、その本質が大衆化された時にこそ芸術家の本分を全うしたといえるのではないでしょうか。


芸術家は「新しい普通をつくる人」なのではないかと思うんです

芸術とは単に人と異なる行為や自己を表現するだけの行為ではないことは歴史が教えてくれました。広く社会に対して疑問を持つことから始まり、その声ならぬ声をそれぞれの表現を用いて代弁することで、世に新たな気づきを促すことこそ芸術なんですね。

そういう意味では芸術家は作品を作り上げてからがスタートであり、啓蒙家としての側面も持ち合わせていなければならないのではないでしょうか。そう考えるとやっぱり北大路欣也千住博氏のプレゼン力が銀河系を代表するレベルだったことも自然なことのように思えてきます。まさしく芸術家なのでしょう。


悟りを開きつつ話しされている体で(聞き入って全く写真撮れなかったも、唯一の写真が目瞑ってもてる・・・)

最後に千住氏はこんなようことをおっしゃっていました。

自己表現は芸術ではない、主語は「私」ではなく「私たち」であるべきだということ。そして好みや年齢差、言葉や国(民族)を越えて、伝えることができるコミュニケーション手段こそが芸術の本懐だ。

芸術とはあくまでも皆のものであり、決して限定された個人に帰結するものではないということですね、この本質を見失っては独りよがりで終わってしまいますから注意したいと思います。さて、回りくどい表現になってしまったところもありましたが、この1時間はこれからの活動にとても刺激をうける時間になりました。これらがともに芸術分野を志す皆さんの活動において何かのヒントとして役立ててもらえたなら嬉しいと思います。

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