あるべき論者への対話のすすめ〜納得でなく理解〜

僕はよく、流されやすかったり、自分を持っていなかったりと言われる事があります。新卒で入った会社ではカメレオンと言われた事もあります。その場にあわせ、いろんな色に変化する事ができるからだそうです。褒められたのかどうなのかはよくわかりませんでしたが、なるほどと膝を打った記憶があります。で、そんな自分に嫌気がさしていた事もありましたが、最近はこういう性格もいいんじゃないかと思うようになってきました。

■あるべき論者の不毛な争い
というのも、変化が激しい時代で生きる我々ですが、まだまだ「あるべき論」で話される方が多いからです。「女性は働かず家庭を守るべき」とか言う残念すぎる発言から「カレーと言えば牛肉でしょ」と豚でも牛でも鶏でもどっちでもというものまで、こうしたあるべき論は毎日至る所で耳にします。

で、中には全く意見を変えない、変えようとしない人も一定数おりまして、そんな人と話しているとやっぱり話を聞く側としても、げんなりしてくるわけですね。あるべき論者同士が、話しているのを隣で聞いていると、よくそんな不毛なやりとりにそんなにエネルギー使えるなと、もう逆に感心してしまいます。(あのエネルギーは持ち合わせておりません)

■会話ではなく対話する
さて、こうした収集つかない議論を上手くまとめるためのスタイルはいろいろあると思ういますが、おすすめは「対話」するといことです。会話でなく、対話。会話はまあいつもやってるおしゃべりです、ひたすら言いたい事を言う(という事は聞く事に徹する事もありますが)という感じですが、対話は一方通行同士ではなく、異なる価値観を共有する、すり合わせるという感じです。

ですから、あるべき論者の方にはぜひ対話に挑戦してもらいたいと思います。対話のポイントは、その人の考えているモノの背景やモノの見方、角度などをきちんと共有するということだと個人的に思っています。

■納得できなくても理解はできる
僕はこんな経験をしてきて、こんな角度から見ているのでこんな風に主張するよと。それぞれの立ち位置や経験している内容が異なるので、意見は違って当たり前という前提です。そうすれば「確かにそんな経験しているのであればこう見えてもおかしくないな」と「納得」はしなくても「理解」することはできると思います。

「私は関西生まれなので、カレーは牛肉です」「僕は関東だったので、豚肉です」みたいな感じで背景を共有する事ができれば、「今回は豚で、次回は牛、いやだったら鶏でいいやんヘルシーだし」みたいな折衷案も出てくるんじゃないでしょうか。

頑固なあるべき論で譲る気がない方々には、背景や見えている風景を共有することからはじめてみればいいんじゃないでしょうか。穏やかな気持ちで対話する事ができると思います。

カメレオンな僕はどっちでも受け入れる事ができるので、そういう意味でこの変化の激しい時代もどんぶらこっと波に流されながらどこかしらには漂着できるんじゃないかと楽な気持ちでいちゃっていますが、こんなんでいいのかどうなのか。

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