料理系のYouTubeが好きだ。プロの技を惜しみなく見せてくれる動画、丁寧に出汁を引くシーン、食材が少しずつ変化していく過程——あの「見ているだけで満たされる感じ」がたまらない。料理が好きだから、当然レシピも参考にしたいし、知らなかった調理法を学ぶのも楽しい。
ただ、少し前から、見るのをやめてしまうチャンネルが増えた。料理の腕が問題なのではない。内容が薄いわけでもない。理由はただひとつ。
「野菜に塩をしてあげます」
「お肉を休ませてあげましょう」
「玉ねぎをあめ色になるまで炒めてあげてください」
この、「〜してあげる」という言い方が、どうしても気持ち悪いのだ。はじめは、画面を閉じるほど嫌いというわけではなかった。でも炒めてあげて節を使う人が増えるにつれ、そっとフォローを外すようになってきた。料理系YouTubeチャンネルもめちゃくちゃ増えたので、絞るのにも一役買ってくれてる。
一度気になり始めると、料理の手順が頭に入ってこなくなる。なぜこんなに引っかかるのだろう、と考えてきた結果、それなりに言葉の問題として整理できてきたので、ここに書いておく。同じように感じている人がどこかにいるかもしれないし、逆に「何が問題なの?」という人にも少し考えてもらえたら嬉しい。
ちなみにこれはあくまで、料理系YouTubeチャンネルへの文句でなく、言葉の言い回しについてのひとりごと。料理系チャンネル以外にも、YouTube以外に、リアル世界でも「してあげる」のような言い回しする人はめちゃくちゃいる。というか、そう言う人の方が多い世の中になってきてる。ただただよく料理系YouTube見てるので、今回はこの流れで進めていく。
「あげる」という言葉の、本来の意味
さて、まず基本的なことから確認しておこう。「〜してあげる」の「あげる」は、補助動詞だ。「与える」「やる」の謙譲・丁寧表現として発展したもので、現代語では「相手のために何かをする」という意味を帯びる。ちゃんと調べた。
たとえば「子供に本を読んであげる」とはよく言う。子供は「読む」という行為によって何かを受け取っているからこれは自然だ。子供は本を大人ほどはうまく読めない、子供は動詞の恩恵を受ける対象として存在している。重いものを運んであげるとか、道を教えてあげるとかもそう。
つまり「〜してあげる」が成立するには、恩恵を受ける側に、少なくともある種の「受け取る主体性」のようなものが必要になってくる。感情があるとか、意識があるとか、そこまで厳密でなくてもいい。でも「何かを受け取る存在として想定されている」という前提は、文法的・語義的に潜在している。
その前提があるから、「玉ねぎを炒めてあげる」という表現が、なんとなく奇妙に感じられる。玉ねぎは、炒められることで何かを受け取るわけではないから。なんなら、素材へのリスペクト感覚があるなら「炒めさせていただきます」くらいの方がしっくりくる。ご飯を食べる時に感謝の気持ちで「いただきます」っていうくらいだし。
擬人化なのか、と言われると、そうではない気がする
ここで「でも擬人化じゃないの?」という反論が来るかもしれない。確かに日本語には擬人化の文化がある。植物に「がんばってね」と声をかけたり、車に愛着を持って名前をつけたりする感覚は、日本人には珍しくない。結構いる。
でも、「炒めてあげる」は擬人化ではないと思う。擬人化というのは、意図的に人格を付与する表現だ。「この玉ねぎちゃんが美味しくなりたがっているから、炒めてあげましょう」なら、玉ねぎに気持ちを持たせているのがわかる。キャラクターとしての玉ねぎが存在している。絵本とかのキャラクターならよい。
でも料理動画の「炒めてあげます」には、そういった意図はほぼない。玉ねぎを主体として語っているわけでもないし、玉ねぎに思いを馳せているわけでもない。ただ「炒めます」と言えばいいところを、「あげる」がついている。そこがむずがゆい。ほんとに。
擬人化は意識的な比喩だが、「〜してあげる」のこの用法は、たぶん無意識に滑り込んでいる。それゆえに、違和感が薄い人には全く薄く、気になる人には「なぜついているの?」と引っかかるんだと思う。
では、なぜ広まったのか
これが興味深いところで、「ケアの言語」が料理の文脈に入り込んできたのではないか?と思っている。少し前に「。」で終わる文章は怒ってるように思われると言う記事を見た。後輩からも聞いた。テキストで「xxxxをしてください。」というと怒ってるように思われると言うあれ。これと近いものがあるかもしれない。慇懃無礼がちょうど良いと言う感じ。
料理に対して丁寧に、大切に向き合う姿勢を表現したいとき、「〜してあげる」はある種の「やさしさ」の演出になる。「肉を休ませます」より「肉を休ませてあげます」のほうが、なんとなく、語り手が食材を慈しんでいる印象を与える。料理家としての人柄をアピールしたいコンテンツの中で、この表現は確かに機能してると思う。
また、動画コンテンツはどこか「会話的」。視聴者に語りかけながら進む料理動画では、文語的な正確さより、温かみのある口語的表現が好まれる。「〜してあげる」は、その流れの中で自然に使われるようになっていったんだと思う。
さらに、メジャーなインフルエンサーがこの言い方をしていれば、それを見た人がまねをする。まねをした人の動画を見た人がまたまねをする。言葉の用法はこうして広がっていく。
日本語は変化する。それはわかっている
ここで、自分の中の「もう一人の自分」が口を挟んでくる。
「でも言葉って変わるものでしょ。」
そう。これは認めなければならない。日本語の歴史を振り返れば、本来の意味から外れた使われ方が広まって、それが辞書に載るようになった例はいくらでもある。
「ら抜き言葉」が典型例ですね。「食べれる」「見れる」は文法的には誤りとされてきたけど、今やこちらのほうが自然に感じる世代も多い。「全然」は本来否定と呼応する語だったが、「全然大丈夫」という肯定用法は今や完全に市民権を得ている。「役不足」は本来「その人の力量に対して役目が軽すぎる」意味だが、逆の意味で使われることのほうが多くなってきた。本来の意味を知らない人の方が多いくらいでしょう。
言語とは生き物で、使われ方によって変化する。「誤用」と呼ばれていたものが、時間をかけて「正用」になっていく。これは言語の本質的なダイナミズムであり、変化を嘆いても始まらない——それは頭ではわかっている。わかっているのだが。。。
理屈はわかっても、感覚がついてこない。これが本音。だからこれを書いてる。言語変化に理解を示す人間でも、その変化のただ中にいるとき、新しい用法が「気持ち悪い」と感じることはある。むしろ言葉に関心がある人ほど、そういう感覚が鋭いかもしれない。
「気持ち悪い」と言うことへの後ろめたさ
実はこれを書くとき、少し躊躇があった。言語の変化に否定的な人間は、「言葉警察」と揶揄されることもあるみたい。「正しい日本語」への執着が、排他性や保守性と結びついて語られることもある。(この記事がそうなってないことを願うばかりだけども。。。)
でも僕が言いたいのは「間違っているから使うな」というより、「気持ち悪いと感じている」という、個人的な感覚の話。そして、その感覚を持つ人間が、僕の他にも一定数いるのではないかということ。
言語の変化を認めることと、違和感を持つことは、矛盾しない。変化を止めようとは思っていない。止まらないし。でも変化の途中で「うっ」となる感覚もまた、言葉と向き合っている証拠だと思う。
言語変化におおらかな人間が「なんでそんなことが気になるの?」と言うのと同じくらい、変化に敏感な人間が「どうして誰も気にしないの?」と思うのも、自然なことだ。
自分の言葉で話してる人への信頼
今のところ、「炒めてあげます」が出てきたチャンネルは、そっと閉じている(概要欄の文字だけ読ませていただいて)。内容がどれだけよくても、引っかかりが積み重なると集中できなくなる。これは完全に個人的な閾値の問題で、「だから使うな」とは言えないし、言ったところでこの流れは止まらない。
でも一方で、使わないYouTuberへの信頼感が上がっている、かなり上がってる。言葉の選び方に気を配っている人は、料理の細部にも気を配っているような、自分自身のスタンスを確立しているような、そんなふうに感じる——これは完全にバイアスなんだろうし、炒めてあげますって言ってる人のレシピ見ておいた方が得になることも多いかもしれないけれど。。。
言葉は、料理と似ているかもしれない。素材の扱い方に、作る人の思想が出る。ならどんな言葉を選ぶかにも、その人の感性が出てるとも言えるかもしれない。「炒めてあげます」という言葉を選ぶ人と、「炒めます」と言い切る人では、食材との距離感が違う気がする。それが正しいとか間違いとかではなく、どちらに親しみを感じるか、という話として。僕はやはり後者が気持ちいい。
同じように感じている人へ
このもやもやを言語化するのは、意外と難しかった。「気持ち悪い」というのは感覚であって、論理ではないから。でも感覚を言葉にしてみると、少し楽になる。
もし同じように「〜してあげる」が引っかかっていた人がいたとしたら、その感覚はおかしくないと思う、そして僕としてはとてもうれしい。言葉に敏感であることは、欠陥ではなく、ひとつの読解力だから。まあ生きづらいと思うけども。
そして「なんでそんなことが気になるの?」という人がいたとしたら、それもまた正常な反応かもしれない。感覚というのは人によって違う。言葉が気にならない人は、その分別のところに違和感を感じてるのかもしれない。何に引っかかるかは、その人が何に注目しているかを映している。
玉ねぎは今日も、誰かに「炒めてもらい」、誰かに「炒めてあげられ」ている。本人(?)は何も気にしていないだろうけれど、見ているこちらは、まだしばらく気にし続けると思う。早く慣れたい。僕はまだしばらくは「炒めさせていただく」という精神で料理していくことになりそうです。
この書籍にも「じゃがいもを切ってあげてください」という言葉をベースにつっこんでいただいてます。現代日本語も全部が嫌いなわけじゃじゃないけども、まあこういうふうに取り上げてくれてると嬉しい。


