【京都芸術大学/学芸員課程履修レポート公開】日本文化論

こちらでは、通信にて京都芸術大学の学芸員過程で履修したレポートをアップしています。

今回は学芸員過程の科目の1つである【日本文化論】についてです。

京都芸術大学の学芸員過程選択科目:日本文化論のレポートテーマ

学芸員過程の選択科目【日本文化論】のレポート提出課題における、シラバス記載の到達目標は次のようなものです。そのまま引用します。

 現代ヨーロッパ語で言えば定冠詞をつけて単数形で語られる「日本文化」というものが存在するわけではありません。とはいえ、この日本列島のなかで展開されたさまざまな実践的・理論的な営みの中にはそれ自身深みをもって輝き、後の人々に大きな影響を与えたものがあることも確かです。多様で多元的、多層的なそうした営みの全体を見渡すならば、今日なお忘れてはならない大事なものの一つとして仏教を挙げることができると思われます。インドで生まれ、東漸し、この日本列島で育まれた仏教には、世界とアジアのあり方を考えていく上で大きな力になるものがあるのではないでしょうか。
この科目では梅原猛の『地獄の思想』をテキストにします。テキストの読解によって、この列島の中で育まれた大事なものの一つである仏教に対する目と理解を養いたいと思います。仏教とその中の地獄の思想に対する理解を獲得することで、「地獄」を切り口にして日本の文化を深く考察していくことが目指されます。
京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)シラバス2021から引用

梅原猛の『地獄の思想』という書籍を読み、以下の設問についてレポートを記載していきます。

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この書籍少々難しいですが、レポートを書かなくてもかなりおすすめです。

【設問】テキストを読んだ上で、この列島で生まれた文学や芸術や生活の中に「地獄的なもの」を自分で見出し、その地獄的な事象がどのような意味で「地獄的」なのかをテキストを適宜引用・参照しながら明確にするようにして論じなさい。その際、著者のように、「新たな地獄を名づける」ということを行ってもよい。
京都芸術大学(旧京都造形芸術大学)シラバス2021から引用

 

【設問】テキストを読んだ上で、この列島で生まれた文学や芸術や生活の中に「地獄的なもの」を自分で見出し、その地獄的な事象がどのような意味で「地獄的」なのかをテキストを適宜引用・参照しながら明確にするようにして論じなさい。その際、著者のように、「新たな地獄を名づける」ということを行ってもよい。

「社会構造が生み出す生きづらさの連鎖」

吉田修一という作家がいる。私は彼の作品作りへのアプローチが好きだ。彼の作品は見終わったあとにスカッとするハリウッド映画とは対極に位置するような作品で、むしろ「ああ、読まなきゃよかった」と読み終わったあとに思うことも少なくない、そんな作風である。ところが暗く沈みこみ心にしこりを残すだけでなく、その気持ち悪さと同時にどこか爽やかな後味を感じさせる何かがあるのである。

吉田修一作品のその殆どは特別な場所が舞台ではないし、特別な誰かの物語ではない。ありふれた普通の日常に焦点を当て、普通の人を切り取り描かれる。ただ、ある日、そんな他愛もない日常を送るための歯車に小さな歪が確認される。その歪が次第に大きくなり、結果として隣人の隠れた狂気を見ることになるのである。

読まなきゃよかったと思うのに読んでしまう。どうしてこんなにも彼の作品に惹かれるのか?これまで言語化できずにいたのだが、書籍「地獄の思想」の中の「仏教が人間の基本に苦を見る限り、いま我々が住まうこの現世は苦の世界であり、つまり地獄である」この文章を目にして合点がいった。

世界は一見うまくいっていると人の目には映っているが、たった一つでも歯車が狂えばどん底に転落してしまうような危うさを抱えているのではないか。そしてその綻びの一端は、人間誰しもが、まるで不発弾のように心に抱えて生きている。そんな人間模様をリアルに描き出した彼の作品は現代社会においての地獄を的確に表現していると考え今回の課題に取り上げた。また、この世の中が地獄であれば、私たちは誰しもが彼の作品の主人公と成り得るのではないか?と、私自身今生きる現実世界そのものへの恐怖を感じたことも、地獄的な観点から彼の作品を見たくなった理由の1つである。

ここからは彼の作品の中に見られる地獄的観点を述べていくが、中でも現在の地獄を表している作品として『怒り』をあげたい。2016年に渡辺謙、森山未來、妻夫木聡、松山ケンイチなど日本映画界を代表するキャストが結集し映画化されたことでも注目を集めた作品だ。

物語を要約すると、「怒」という血文字を残して未解決となった殺人事件を巡って、千葉、東京、沖縄の3つの舞台において同じ時間軸で3つの物語がパラレルで展開される。異なる舞台のそれぞれでフォーカスされる男性3名、彼らの誰かが犯人なのである。登場人物の見えない過去や怪しい言動により周囲の人間を翻弄し、また翻弄され物語はクライマックスへと進んでいくのである。

梅原猛氏の「地獄の思想」の中で触れられている地獄は、宗教的な側面からの解説がベースとなっており、極楽浄土と対比される形での地獄が確認されたが、この物語においては極楽浄土に変わる絶対的な救いはない。

現代の日本においても格差や差別など住みづらい人たちが注目されているが、劇中でも様々なバックボーンを持った人たちが描かれている。片親育ちの風俗嬢、日雇い労働者、性的マイノリティ、米国兵のレイプ被害者、、、それぞれ生きづらい立場に置かれながらも必死で自分自身を確立させようともがくのだが、環境がそれを許さない。

この物語の地獄は個人で完結する地獄ではなく、また日本全体の地獄でもない。限定された人々の過去から受け継がれる地獄、つまり生まれた土地柄や育った家庭環境など、自分自身ではどうにも変え難い地獄の連鎖、しがらみなのである。この地獄の中で生きる人達は望む望まざるに関わらず、生きるためにもがかなければならない。自分自身が選択したわけではなく、生まれた瞬間に運命づけられているわけである。社会の中に地獄があるわけではなく、社会そのものが地獄なのではないか思うのである。このような人々は一体この世の中のどこに拠り所を見つけられようか。「社会構造が生み出す生きづらさの連鎖」とでも言える地獄ではないか。

このような境遇にいる生きづらさを抱えた人たちには、少なからず隠しておきたいことがあることだろう。ただし人は信頼を提供するためには全てを確認しておかなければならないと考えがちだ。そうして人は詮索に走る、それは貶めたいという気持ちではなく、むしろ信頼したいという前向きで好意的な行いなのであるが、往々にしてこのような行為は破滅への第一歩なのである。

劇中においても、おかれた環境や状況によって最も近しい存在ですらも疑ってしまう。そしてそ詮索行為を自己嫌悪し、何とか留めていた形はもろくも崩れ去る。喪失感の次に来る虚無感。普通であることの難しさ。根源的に後ろめたいこと(自分自身の過去)に苦しめられ、罪の意識ががあるために、全ての行いが罪滅ぼしという意味を内包する状態において、心の底から喜ぶことなどはできない。喜んではいけないとさえ思ってしまっているフシすらあることはこの物語に限ったものではない。

こうした心の変遷はまさに「平家物語」においての重盛に見ることが出来る。平家滅亡の流れに憂いつつも、自分自身は悪行を働いてしまう。しかし悪行と同じだけ善行を行う行動はどこかでバランスを取ろうという気持ちが働いた結果である。善行はますます意図的になり、自らの心は置き去りにされる。「怒り」においても「平家物語」においても、行いの結果は残ったとしても、彼らの心はどこに安らぎを見出すことができるのであろうか。

生きるために、仕方なく悪事をはたらくこともあるだろう。そのような手段しかとれないこともあるだろう。だがしかし、その環境に追いやった責任を無視して、その行動だけを裁くことなどできはしないのではなかろうか。罪を憎んで人を憎まずとはよく言ったものだが、実際は個人の過去に焦点をあてられ、罪よりも人が憎まれがちな風潮があるのは言うまでもないことである。

具体的には例えばアルコール依存症があげられると思う。アルコール依存症患者はアルコールを自らの意志で主体的に「飲む」という行為を持ってアルコール物質を体内に取り入れるわけで、一見すると個人の問題であるかのように思われがちだ。

しかし、その元を辿れば酒を過剰に摂取しなければならないという本人がコントロールできない異常な事態が前提にあるわけで、つまりその異常な事態によって本人の意志とは離れたところで飲まされているという地獄的な構造が垣間見られる。だが過去や環境という地獄によって作り出された被害者という視点は決して無視してはならない。また罪を犯した受刑者はその殆どが、過去に虐待された過去を持つ被害者という統計もある。地獄的な環境が人を変え、次なる疑獄の連鎖を生み出す、このような社会構造が生み出す負の螺旋は明らかに現代版の地獄を象徴しているように思うのである。

話を戻す。このような社会構造が生み出す地獄的な環境における問題点は、それが社会全体からみるとマイノリティという点ではないかと考える。ようやく近年は政治という文脈ではなく、個が旗を振り、賛同する共同体がムーブメントを起こすという動きが見られるようになった。だが裏を返せば、我々は現代社会において個人の意思表示で地獄と向き合わなければならないとも言えるのである。

ただ、神仏ではなく人が生み出した地獄であるならば、この地獄は人々の手によって解決出来るはずなのだ。簡単なことではないが、向かうべき光は確かにある。「怒り」のエンディングにおいても地獄の中に小さな希望を見出したエピソードも確認された。同じ光でも闇が深ければ深いほど、光の輝きは増すのである。吉田修一の作品は身に迫る恐怖とどうしようもない不安を感じずにはいられない。「地獄で仏に会ったよう」とはよく言ったもので、そのどうしようもなさの中に、一陣の風が吹き抜けたような気持ちにさせられるのが彼の作品の地獄的観点であり、また大きな魅力として私の目に映るのである。

本文総文字数3197

 参考文献

  • 書籍版 怒り (上・下) (中公文庫 2014年)
  • 映画版 怒り(東宝映画 2016年)
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