【東山魁夷展】達人の心境と祈りのかたちを考えた


東山魁夷の展示をギリギリ滑り込みで見た。彼の絵よりも作品を通した考え方に俄然興味が湧いた。いや、もちろん絵も素晴らしいのだけども。そのいくつかを忘れないようにメモしておこうと思う。

彼は晩年ドイツに訪れた際(若いころも行ってるけども)、木を描かずとも落ち葉で形がわかる。という感覚を持ったようで(奥さんの呼び水もあっただとか)木の根元とそこに重なり合った落ち葉を描いていた。

なるほど、この木がどのような形でどのような大きさなのか想像力を掻き立てられる。落ち葉に金箔のようなものを散らしてあった。

ただの一本の木、それも根本の幹と役目を終えた枯れ葉。普段歩いてるときには、こんな景は通り過ぎてしまう、それどころか気にもとめないと思う。でもその切り取り方と画力でもって、ホワイトキューブ内では人を立ち止まらせてしまう。芸術家というのはすごいものだなあと改めて実感する。

で魁夷は、最終的にはうまいへたではなくて描くことは祈りだという境地に踏み込んだ。だったら上手いとか下手とかそういうものではなく、その想いの強さこそ絵に求めるべきなのだと。だから老齢となった晩年は写生にも出かけることができなかったが、心の中の風景を描き続けるという行為に出た。

その前に唐招提寺からの依頼で描いた絵のいくつかは、現実にはいない白い馬が描かれている。白馬こそこ彼にとっての祈りの結晶であり、絵を通して祈りは馬となって具現化された。その馬がまた美しい。祈り(または信仰、といっても宗教的なものに限らず)というのは、やはり無条件に美しいものなのかもしれない。

ちなみに彼は自分を下手くそだと思ってたのだとか。まじで思ってるから技術を磨き、見えるものでだけではなく見えないものまでも見ようとして描き続けたんだろう。最終的には祈りながら心の中の景色を描く。

最後に映像を少し見た。彼は人間が到達する「美」を追い求めたそうだけども、限りなく答えがなさそうなこの問いを胸に、絶筆となった「夕星」を描き終えた時、どのような境地で自身の作品を眺めたのだろうか。


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