無意識を映写そうと頑張っている。言ってしまえば写真はカメラが撮るわけで、人の目が見る世界とカメラがファインダーに囲う世界とは似てるようで全く違うと言っていいとも思う。
そんな考えを尊重すると、人の目なんか当てにしないで、すべてカメラに委ねればいい、つまり撮り手の意識を可能な限り排除する。というエッジの効いた考えになる。
金村修さんという写真家がいる。彼は東京を撮影してる。都市の無機質な姿を、自分をどっかにおいといて、カメラに撮らせるというか、カメラに撮らされるというか、いずれにしてもこういう姿を撮ってやろうみたいな感覚ではなく、とにかく自分を入れずに考えずに撮りまくるというそんなアプローチでやっている写真家さんだ。
近々、そんな金村修という写真家のレクチャーを受けるということもあって、そこらへんをなんとなくでも自分の中でエッセンスとして取り入れておかないとなあと思って、とりあえず好きな街の1つである三茶に繰り出した。
意識を捨てるというのは、もはや悟りを開くことと近しいので、実際は無意識的に撮ることなんて、まあ不可能な領域だと思う。とりあえず、何も考えずにシャッターを押す、と簡単に言ってみる。でもこの中に、どれほどの意識が入り込んでいるだろう。
カメラを構える方向、構える角度、そこに持っていく腕の動きや手首の動き、ぶれないように動かさない、シャッターを切るために、指をセットして、指に力を込める。
おお、意識の塊。これらをすべて意識せずにするとなると、もはや写真を撮らないみたいなことになる。剣豪が剣を極めれば、無刀になる、的な事になってしまう。撮ろうと思ったときにはもう撮れている。
いや撮ろうとする意識すら必要とせず撮れてしまっている、そういう意味では世界は私であり、故に撮る必要すらなくなる。つまり写真が私自身で・・・みたいなことをいうと金村さんにぶっ飛ばされそうなので、このあたりは心の中に留めておこうと思う。
酔っ払ってカメラ持って出かけるのが一番の近道かもしれないなあ。ただ酔っ払って階段から転げ落ちた名写真家もいたことも頭の中に留めておきましょう、ぼく。
ま、酔っ払って次の日忘れてるんと、無意識ってんは全く違うってのは、重々承知しておりますが!