先日の「生きづらさを打破するための中動態的スタンスによる芸術表現」に引き続き、「生きづらさ」と「芸術」の関係性についてもう少しだけ思うところを述べておく。
コミュニケーション手段としての芸術表現
デューイは「作品は自らの内部からではなく、環境との相互作用によって生じる」という言葉を残している。例えば、生きづらさの自己表現という書籍の中で、摂食障害に苦しんでいた上野千鶴子さんは食べては嘔吐を繰り返していた自分自身をキャンバスに描くことで精神を昇華し疾患の克服へのきっかけにしていた。
こうしたときにアートの力を借りることは非常に有効である。書籍の中では癒やしの効能を得るために描き続ける方が上野さん以外複数人紹介されていた。目の前のキャンバスに己の内なる想いを表現することで、自身と向き合うと同時にある種のデトックス効果を得ているようであった。1人きりでの深い自己対峙は難しいものであるが、キャンバスという受け止めてくれる相手がいることで安心して自己と向き合うことができるのだろう。
そして、たくさんの絵を描いてきた彼女ではあるが、その病の克服と病のもととなった親子関係が修繕されると絵が描けなくなったと言っている。
これは先日ふれた「能動態的に描きたいから描いていたというより、描く必要があり描かざるを得なかったと解釈することができる。つまり絵を描く必要がなくなったということだ。まさに自身の内部と社会とのGAPの溝を埋めた芸術表現だったのである。
多様な価値観を受容するための芸術的スタンス
仕事において大工を選ぶ人、医者を選ぶ人、コックを選ぶ人がいるように、コミュニケーションを取る手段に言葉を話す人もいれば絵を描く人、音楽を奏でる人、布を織る人がいてもおかしなことではない。耳で聞くことに慣れすぎている私達ではあるが、目で聴き、指先で聴き、心で聴けばよいのである。
ただし、そうした感性を比較的持っていると思われる芸術領域にいる人のほうが社会ではマイノリティであり、その他のマジョリティ層に対しては受け入れてもらい難い側面があるのではないかと思う。つまり閉塞的な社会においては表現する側だけではなく、マジョリティ層への鑑賞者としての目を養っていくことも重要だと考えるが、無論これは芸術を理解する上での視点ではなく、他者を受容する素地をつくる、多様な価値観を受け入れる、相互扶助の精神に気づく、という日常生きていく上で持っておくべき視点だ。
芸術を特別視することなく、日常生活に取入れていくことができれば社会はもっと楽しく安心した場になるのではないか。
何も生きづらさを感じているのは彼らのように障害を抱えてしまった人たちだけではない、病名もまだ存在しないだけで何かに蝕まれて生きているフリをしている人もいることであろう。こうした生きづらさを打破するための武器としての芸術を教育で伸ばすこと、そして生み出された作品の解釈が「自分なりに」できるように教育することが重要だと思う。見ることもまた癒やしの効果を持つのである。
それにしてもアートの対象は重度の障害を持つ人達に限らない、多かれ少なかれ閉塞感を心の中に秘めているように見られる現代社会において万人の処方箋として活用することができるだろう。まさに「すべての人が近づき得る芸術」というデューイの言葉が指し示すとおり、芸術は現代社会にこそ必要ではないか。
社会へと還るための私の芸術テーマを探す
自分自身も今作品を作りたいという気持ちを強く持っている。もちろん何かを生み出すということは好きなことではあったが、ある時から表現することに対して固執していた気がする。脅迫観念にも似たようなものだった気もする。表現しなければならない、何者かにならねばならないといった具合に。それは、無意識的に処方箋としてアートを必要としていた結果なのかもしれないと考えるようになった。つまり表現する理由は自分自身が救われたいということではなかったかと。
これまで絵を描き、写真を撮り、書を書いた。表現したいという欲求が先に立っていた私であったが、これから自分自身との対話を行うための手段として芸術を手段として使うことができるようになった。
「作品は自らの内部からではなく、環境との相互作用によって生じる」のであるならば、自身のこれまでの作品を見返した上で社会へと還ることができるテーマを設定したいと考えている。近い将来、主要な星たちが集まり星座と認識されるように、私が夜空に放った小さな星たちも輝き出すことを期待して。