ジャコメッティの世界〜答えから生まれる問い〜


先日会期終了が迫ってきたジャコメッティ展をいそいそと見に行ってきた。

ジャコメッティの作風を考える

初めて会場で実物を目の当たりにした際、写真で見るのと同じように必要以上に長細く作られた像に不気味さを覚えたものの、今思い出してみると冷たい石の中に何というか温かみのようなものを感じたような気もするなあと思い出す。


石像と対話するおやじがいた(一部だけ撮影可なのです)

対象物を見える通りそのままに、人間を人間そのままにカタチにしようと生涯作品を作り続けたジャコメッティだったけど、ジャコメッティよ、最初からずっと気になる事があるんですが・・・なんで滑らかじゃないんですか?

バリバリでゴツゴツでどろどろで。絶対わざと不気味にしてるやんって思ってしまいますよ。

でも生涯かけてたどり着いたのがあの作風、キレイに滑らかに作ろうと思えば作れないわけない。だから敢えてああなんですよね。で、ジャコメッティは見えるがままに作品を作ってくことを追求したと言っているんだから、きっと彼にはあんなふうに見えていたんだろう。


無駄なものが削ぎ落とされた造形

問いに対する答えでなく、答えから生まれる問い

でもあれがいわゆる肌だとは彼も言ってない。そこに解釈の余地がある。彼は見えるがまま、あるがままを作っている。「人間とは何なのか?」という根源的な問いに迫っている。彼のこんな言葉があった。

「ひとつの彫刻はひとつのオブジェではない。それは一つの問いかけであり、質問であり、答えである。それは完成させることもありえず、完全でもありえない。」

まさにこの通りで、彼は問いかけているのではないか。ゴツゴツして気持ち悪いんだけど、無駄な物を削ぎ落とされた美しさも共存してる。冒頭でも述べた通り、表面的には冷たいのだけどその内には温かさを感じられた。

問への答えに作品を作るのではなく、問うために創り、いや答えとしての作品を創ることで、そこに問いが生まれるということなのかもしれない。だからこそ、創り続けた気がする、答えは問を生み、問は次なる答えを創造するのではないか。

答えが問を生むのであれば、ゴールは絶対に訪れない、そのたどり着くはずのない問に迫ったのが、ジャコメッティという表現者だったんだろうなあと思うのです。


素晴らしい造形は素晴らしい影を生む。影がすごくよかった。

そんな創作姿勢を裏付けるように、こんな言葉も残している。

「私とモデルの間にある距離は絶えず増大する傾向を持っている。ものに近づけば近づくほどものが遠ざかる。」

彼は対象に近づくことを願って答えを探し、その答えを表現することで新たな問を生むという姿勢を通して、ある意味で今を否定し続け、真理、本質に迫ろうとしたのではないか。

私達が見ている世界について

「人間とは何なのだろうか。」自分たちが見ている世界は、見えている世界とはどれほど『正しい』のか。


動かないはずの像が、少し動きたそうでしたので手伝ってあげた。

僕は明らかに彼の見えているものは見えていない。

表現者の高みへと登った彼と見ているものが異なることは(今のところ)もちろん仕方のないことかもしれない。でも彼と異なるのなら隣の人と異なっていることだって否定することはできない。

大きさがコンマ1ミリ程度違ったり、歪んでいたり、色だって薄く見えたり、濃く見えたり、黄色がかって見えたり、70億人一緒に見えるほうがむしろ不思議だ。そう考えると「うん、わかる」なんて軽はずみに言うことが怖くなるし、そんな言葉に意味は持たないのではないかと思うのだ。

彼の作品群をみて、こうした当たり前を疑う姿勢をこそ持つべきなのだと言われている気がした。


おみやげにネコメッティのポストカードを買いました

しかしネコメッティ、あれは無駄に可愛かったのです。


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