芸術をやる理由は「問を育む」こと


学友の芸術への視点に触れて、僕も何のために芸術をやるのかということを久しぶりに考えてみた。芸術ってなんだろうか。今のところの自分の思うことを書いておこうと思う。

 

芸術活動ではなく排出活動


芸術という領域に足を踏み入れ数年立った。と思っていた。おかげで周辺領域への知識も少しずつ増えてきて、今まで考えてこなかったようなことも考えるようになったし情報が入ってくるほどにはアンテナが働くようにはなってきた。それは間違っていない。でも実は立ってなかったと思う。

勉強すればするほどに、今自分自身が行っている活動は芸術ではないのでは?と思うようになってきた。その理由は作品のクオリティの話ではなく、おそらく発信する動機に関係していると思う。

1,2年ほど前はとにかく何かを自分自身の中から生み出そうとしていた。それはそれで必要なことではあったが、今考えれば芸術活動とはいえなかったと思う。あの創作活動は言葉を置き換えてみるならデトックスが近い。デトックスをウィキペディア先生に聞いてみたらこんな答えがかえってきた。

デトックス(detox)は、生理学的・医学的に生物の体内に溜まった有害な毒物を排出させることである。 この呼び名はdetoxification(解毒、げどく)の短縮形である。 体内から毒素や老廃物を取り除くことである。

全くそのとおりで、自分の中に溜まった昇華されないドロドロしたどうしようもないものを写真や文字にして放り出した。サウナに入って不純物を体外に排出する行いと何ら変わらない。終わったあとは少しだけスッキリする、でも何度もサウナに行かないといけないように不純物は出した瞬間から溜まってくる。芸術を装った排出作業を行っていたに過ぎない。

 

芸術は相互の関係性を生み出そうとする動機


あらためて芸術もウィキペディア先生にたずねてみるとこんな風だった。

芸術(げいじゅつ、希: η τεχνη、 techné、羅: ars)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。文芸(言語芸術)、美術(造形芸術)、音楽(音響芸術)、演劇・映画(総合芸術)などを指す。旧字体では藝術。

この意味合いには程遠い。芸術の解釈はたくさんあるだろうけども、この定義を正とするならば自分が気持ちよくなる活動は創作活動とは呼べても芸術活動とは呼べるものではないと思う。「作品と他者との相互の関係性のもとで付加価値を生み出す」ことができる活動を芸術と呼べるものだと思う。その視点でデトックス的な創作活動を考えたとき、見た目こそ同じでも何というか作品に宿るエネルギーが違う気がする。

もちろん生まれた作品を世に出せばあとは鑑賞者が(芸術だと)解釈するという側面を持ち合わせるものだとは思うが、コックが料理に責任を持たないことはあり得ないのと同様で、作家はも作品については責任を持つ必要がある。いや、まあ美味しけりゃいいという客もいるかもしれないが、これは自分自身のスタンスとして譲れないことなのだろうと思う。

 

「問を育む」という芸術の視点


さて、デトックス的創作活動を行っているときと比べると今創作意欲が減退したのは、それは自分が良くも悪くも気持ちが落ち着いてきたからだろうと思う。不純物が少なくなってきたと言うか。良くも悪くもとは本当にそのとおりで、気持ちが落ち着くこと自体は悪いわけではない。

むしろ好ましいことだと思う。フラットな精神状態になって初めて自分の活動の意味を俯瞰できる。今はその対象を見定めるタイミング。イメージはマイナスをゼロに戻す行為ではなく、ゼロからプラスに伸ばしていく行為。

そうして自分の外の世界とのつながりを持つ中で、その最も自分自身がエネルギーを注ぐ対象に向かって創作したものを世に出すことのスタート地点に立てる。

対象への問への投げかけの一形態として世に出すことで同様の問を持つ人達と関係できる、または問を宿すことができる。こうして他者と関係する創作活動は初めて芸術としての価値が生まれることになると解釈している。つまり今のところ、僕の中では相互に「問を育むこと」が芸術活動なのではないかと、そう思っている。

言葉の代わりの芸術という手段


最後にもう一つだけ、これまでのものとは別文脈で考えている芸術についても触れておく。芸術領域に含まれる表現方法はコミュニケーションの手段という視点だ。

我々は多くの場合コミュニケーションの大部分を占めるのは会話だけども、何らかな理由で会話ができない場合、筆談やメールはもちろんだが、歌を歌ったり絵を描いたりすることで思いを伝えようとすることもある。こうした行為は芸術性の伝達が主目的ではなく、あくまでも意思の伝達が主目的だと思う。

芸術なんて言葉は後付けで、言葉が今のように確立される前に歌や絵はあった。ラスコーの洞窟画だって、芸術じゃなくて伝達手段だったと言われてるし、親と話す事ができない子供が絵で訴えたりもする。

今は信じられないことだが、文字なんてできた当初はよっぽど芸術性を秘めていたと思う。ただ時代が流れ文字や言葉という表現媒体がこの世界のコミュニケションの手段としての多くを占めることになったことで、特別な枠が外され大衆的と言うか一般的と言うか、普通になった。逆にそれ以外の表現方法を芸術という箱の中に押し込めたとも考えられるのかもしれない。

そういう意味でいわゆる芸術的行為は特別なことを行っていると言うより、自分の声や文字以外に芸術の中に含まれる絵や写真、歌や詩という表現手段を使うことでコミュニケーションを行おうとしているに過ぎないと思う。

ただそのメディウムの特性上伝わり方は容易ではなく、見る側にもそれなりの耐性や知識が必要になってくる。でも読み書き算盤のようにみんなが必ず勉強するものでもないために経験や知識が少ない人が多い、だからやっぱり理解されづらいので特別な箱に入れられる。

そんなことで会話、文字、絵、歌、写真、造形、このあたりは本当は同じ次元にあってもよいのではないかなあと思うこともある。こうした視点で芸術を見ればまたきっと捉え方も変わるんじゃないだろうか。

 

最後に僕が芸術関連でとくによかったなと思った本を少しだけ紹介しておきます。芸術の方法論や見方というより芸術ってなんだ?ということ、やる理由についてわかりやすくエネルギッシュに描いています。読みやすいのでおすすめです。

岡本太郎「自分の中に毒を持て」


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