「私」たちの世界


私が私として生を受けた事実について考える。私の存在はどこからどこまでなのだろうか?私以外は私じゃないのか?そう考える私は?という「我思うゆえに我あり」とは考えるものの、私は、私という存在に疑問を持ってもいる。

私は私であるが、例えばこの文章を読んでいただいているあなたもまた、私になるかもしれなかったあなたであることを否定できないことがその理由だ。

人は自分の生を自分で決めることはできない。「生まれてやろう!」と思って、生まれてくる赤ん坊はいない。生を受ける、あくまで受動的だ。だとすれば、今私は私であるが、自分で決められない以上、私は今の私ではない誰かにも成り得たわけである。もう一人の私達で構成されているのがこの世界だとも解釈できるかもしれない。

そしてそれは、人間だけにとどまることはない。動物だって草木だって私であったかもしれない、前世が桜だったり、来世がコオロギになるかもしれないことを誰も否定はできない。(輪廻転生があればという前提はあるけれど)やっぱりこの世界は、私だったかもしれないもの達ばかりで構成されている。

しかしこの考え方はとても恐ろしい。例えば来世、ベルトコンベヤーにのせられ強制的に大人の大きさになるよう成長剤を投与される食用の鶏として生を受けることになるかもしれない。もしくは向きすら変えられない自分の体と同じサイズに作られた柵の中で搾乳されるためだけに強制的に妊娠させられ続ける牛になるのかもしれない。

そう考えると、これはとても恐ろしいことじゃないかと。もう一人の私たちはそのような扱いをまた異なる私に対して行っているのだから。(生きるという目的が種の保存だけの観点でみると、大量に生まれているということでいくと成功と言えるのかもしれないけれど)

翻ってインディアンなどを代表とする狩猟民族には熊や羊は人間であるという神話が伝わっている。彼らは闇雲に獲物を殺さない。詳細は割愛するのですけど、決して一方的に搾取する対象ではなく、対等な存在として熊を見る、だから熊を人間として扱う。自然界の中で共生するための人間が生きる上でのルールだ。宮沢賢治の世界観と通じるところがあると思う。

農業革命以降の文明の進歩により、自然界は畏怖する対象から、搾取する対象へと変わってきている。文明の進歩は様々な恩恵と引き換えに大切なものを奪っていったのではないのか?私たちは果たしてこれで良いのか?私という概念、範囲を広げてを考えることを通して、世界の在り方を考え直すきっかけとしたいと思ったりもするわけです。


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