サヨナラダケガ人生ダ

形を保っているうちは、保護する必要はない。曖昧で不確かな存在こそ、捕らえ(捉え)ようとするのではないか。

人は失う時に最も深く心に刻む。失わなければ真に刻む必要はないのだから。

ダーザイン(現存在)からゾーザイン(本質)へ。

失うことを通じて、その存在の本質的な部分を自身に取り込むことができる。

創造と破壊、出会い別れ、生と死。

こういうことを考えた時に、僕は井伏鱒二が「サヨナラダケガ人生ダ」と訳した唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の詩「勧酒」を思い出す。
こちらのページから抜粋してます、詳しくはこちらのページへ

勧 君 金 屈 卮
満 酌 不 須 辞
花 発 多 風 雨
人 生 足 別 離

書き下し文
君に勧む金屈卮(きんくつし)
満酌、辞するを須(もち)いず
花発(ひら)けば風雨多し
人生、別離足る

口語訳(現代語訳)
さぁ、この金の杯を勧めよう
杯になみなみと注がれた酒を遠慮する必要はない
花が咲くころには雨風が多くなる
(※楽しみにしていた花は、咲いたらすぐ散ってしまう)
人の世も同じように、楽しみの後には別れがあるものだ

井伏鱒二訳
コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

「さよなら」というものは元来悲しみの対象とされているが、実はそんなこともないかと思わせてくれる。

人は死ぬことが決定づけられているゆえに、生きた証を残そうとする、これと同じように別れがあるからこそ、出会いを大切にする。

その中で得られたもの全てを集約する手段が別れなのではないか。

失うことを通して私たちは本当に手に入れられる。

このような考え方はできないだろうか。

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