コンテンポラリーアートの現在という講義を聴いたので


現在、写真が主戦力である僕ではあるのだけど、なんとなくもっていた違和感の正体が明らかになってきた。

少し前に「コンテンポラリーアートの現在」という講義を受けた。その中で、コンテンポラリーアートとは媒体そのものへの批判性、自己言及が不可欠だということが言われていると学んだ。

ちなみに、コンテンポラリーアートとはいわゆる現代アートのこと。ただ、現代といっても時代区分のことではない。だって1000年前だってそのときは現代アートになってしまう。現代のアート、同時代の美術ということではなく、ジャンルの一つ。ある特殊な様式・価値を示す概念であり、これはマルセル・デュシャンによって方向付けられたとされている。

そして冒頭の違和感の話。具体的には私自身「別にカメラや写真が好きなわけじゃないんだ」と思うことがある。カメラで◎◎を撮りたいという欲求よりは、☓☓を表現するためにカメラ、写真を手段として活用しているといったほうが自分のスタンスにしっくりくる、それが違和感の正体。

だから今は写真という武器を持ってるわけだけども、必ずしもいわゆる写真でなくてもいいと思っている。写真を用いたティルマンスのような部屋全体を使ったインスタレーションや、異なる領域の芸術と組み合わせることで新たな表現ができればいいなと。

そういう意味で今後自分自身の制作の方向性を磨いていくために、デュシャンを掘り下げていこうと思う。この講義を受けるまで、彼の背景について詳しく知らず、便器を横において物議を醸しだした人くらいの認識だった。

彼が問いかけた次の問が秀逸。

「これを芸術と呼ばない(呼べない)鑑賞者にとっての芸術とは一体何であるのか?その説明がなされない以上、芸術であることを否定できない」

この芸術とは何であるのか?という根源的な問と作品の発表の方法(レディメイド)を組み合わせた着眼点を私はこれから身につけていかなければならない。

しかし、一方で本質ということを突き詰めていくことへの不安もっている。アキレスと亀のパラドックスのように本質に近づこうとすれば遠ざかるものでもあるから。知れば知るほど無知を知る。調べれば調べるほどにわからないことが増えてくる。どこを基点とするのか、自分のポジションをどこに置くのか、まずはこうした自分のスタンスを確立するところから始めたないといけないようだ。

何を表現するか?ではなく、なぜ表現するのか?こうしたイメージを日々抱えている僕にとって、コンテンポラリーアートという領域の中では泳げそうな気がしたりしてる。

デュシャンのインタビューをまとめられている書籍。なんかイメージと全く違うあっけらかんとしたでも、本質的なそんな会話に溢れてました。


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